タマムシが家の近くの舗道に落ちていた。暑さにやられたのだろうか。もう動かなかったが、輝きは失われていなかった。
子供のころ、近所のお兄さんに付いて昆虫採集に行った。都内でも昆虫が豊富だったのだ。トンボ、蝶のほか、カミキリムシやミンミンゼミ、オースカシバなどを求めて木の茂みに分け入ったものだが、タマムシは空中高く、羽根を広げて飛んでいて、捕虫網の竿を継ぎ足しても、どうしても捕まえられなかった。
タマムシには格別な思いがある。
タマムシの羽根で装飾した、法隆寺の玉虫厨子は、黒ずんで面影がないので、あまりタマムシの装飾がピンとこなかった。ところが、タマムシ博士の静岡県藤枝市の芦澤七郎さんが、1000匹のタマムシを寄付して再現された韓国・新羅の遺宝、玉虫装飾馬具を見て、美しさに目を瞠った。
ほかに、馬の鞍を飾った見事な鞍橋金具も出土している。
ユーラシアの騎馬文化と玉虫装飾が結びついているのは、前に触れたように、南海のイモガイが馬具に用いられたのを想起させる。新羅の馬具の装飾職人は、宝石同様のものとして、同心円模様の白い光沢のイモガイや、昆虫の玉虫を発見したのだ。その目の高さに驚く。
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そこで、法隆寺に残る玉虫厨子のことが気になって来る。推古天皇、聖徳太子が、飛鳥寺の仏像制作を始め寺院を建設するにあたっての責任者は、「鞍作鳥」だった。日本書紀には、完成した仏像が飛鳥寺の金堂に入らず、堂(の扉)を壊すしかないという時、「鳥」は、大丈夫と、堂を壊さずにちゃんといれたマジックぶりが讃えられている。
祖父司馬達等、父多須奈の家系は、「鞍作」の工芸をもっぱらにしたので、鞍作鳥と云われたのだろう。法隆寺の玉虫厨子の技芸は、新羅の鞍作が制作した玉虫装飾馬具と繋がり、新羅から渡来した一族の孫の世代の鞍作鳥が手掛けたもの、という想像に広がってゆく。
馬鈴、杏葉など馬具を含む、後期古墳の副葬品と同じものが発掘された。
「(飛鳥寺の)塔に仏舎利を納めたことは、前述のように、推古紀元年の条に見える。この埋蔵物は建久七年の塔焼失後に取り出され、創建時のものは大半失われたが、心礎上方に再埋納した遺物と、建久の時の取りこぼしの品が当初の状態で発掘されたのである。それらは、勾玉、小玉、切子玉のような玉類、金環、金銅製垂飾、鈴、挂甲、刀子などであり、後期古墳の副葬品との類似性に驚くものがある」(中川成夫「飛鳥時代の寺院」歴史教育1960年第4号)=写真も。
道に落ちていたタマムシから、暑い夜に空想を広げてみた。