鉢巻おじさんとか、鉢巻の馬乗りとか、装飾須恵器に多くの鉢巻人物像があるのを知った。 倉敷考古館の「よもやまばなし」に、何回かに分けて紹介されている。実に興味深い。
そのほかの鉢巻おじさんは、これまで述べたように鉢巻力士と思えば、そう見えなくはないが、この人物をどう説明するか。
万葉集に、こんな鉢巻の歌がある。巻11の2496。
肥人(こまひと)の 額髪(ぬかがみ)結へる 染木綿(しめゆふ)の 染みにし心 我忘れめや
《肥国の人が染めた鉢巻をしているように、あなたのことが心に染まって忘れられない》 といった恋の歌だ。
肥人が色で染めた鉢巻をしていた。万葉の時代によく知られた事実だったことが伺える。心に染まる色は、朱や茜あたりだろうから、紅色の鉢巻だったろう。力士以外では、肥人が赤鉢巻をしていた可能性が高い。
気になるのは、肥人を「こまひと」と呼ぶことだ。クマヒトがコマヒトになったか、 あるいは、駒(コマ)をよく操るヒトだからか。肥人は、阿蘇の麓で馬を飼育していたはずだ。
巻5の890。大伴君熊凝(くまごり)という人物だ。山上憶良が歌8首の序文で紹介している。
要約すると、熊凝は肥後国の益城郡の人。天平 3年(731年) 6月17日に、相撲の部領使(ことりつかい)の 某国司の従者となり、奈良の都に向かった。しかし、旅の途上で病にかかり18歳で、安芸国佐伯郡高庭の駅家で客死した。
憶良は、「出でて行きし 日を数えつつ 今日今日と 我(あ)を待たすらむ 父母らはも」(巻5・890)と、熊凝の気持ちになって、父母への思いを切々と歌っている。
「ことりのつかい」は、相撲の節に参加する力士を各国から都に召し出す使い。従者とあるが、熊凝はごつい名前からして、肥後の代表力士だったと想像される。熊凝も元気ならば、都の相撲の節会で赤い鉢巻、まわしをしめて土俵に上がったのだろう。
赤い鉢巻に関連した事項
相撲 騎馬 蛇信仰
肥人 △ △
スガル ○ ○ ○
和歌山の力士埴輪 ◎
埼玉・鉢巻埴輪 ○
装飾須恵器 ○ ◎
たたら精錬 ○
赤い鉢巻から辿れるものがありそうだ。