瀬戸内にいた肥人

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 前回書いた中で、瀬戸内海沿岸で出土した装飾須恵器に肥人の騎馬姿が描かれているという仮説は、自分でも少し無理があるかな、と思ったが、「播磨国風土記」を思い起して、おかしくないと思い直した。
 
 熊本の人が岡山や兵庫で描かれるのは普通は考えにくいが、肥人は古代に牧を作るために、瀬戸内海沿岸に入植していたのだ。
 
播磨国風土記」の「賀毛の郡 山田の里 猪飼野」の条にこうある。
 東洋文庫の吉野裕氏の口語訳で。
右 猪飼とよぶのは、難波の高津の宮に天の下を治められた天皇仁徳天皇)のみ世に日向の肥人朝戸君(あさへのきみ)が天照大神のおられる舟の上に猪を持参してきて献上し、どこで飼ったらいいか、[その場所を賜わるよう]求め、申し上げて[お言葉を]待った。そこでこの場所を賜わり、猪を放し飼いにした。だから猪飼野という
 注に、肥人朝戸君については、「肥後国益城郡には麻部郷があり(和名抄)、そこの人か」とある。
 
 熊本の人=鉢巻おじさんが、瀬戸内海沿岸の須恵器に描かれるのは不思議ではない、ことになろう。