昭和14年、国民党の康紹武が和平交渉のため長崎港に極秘来日したとき、出迎え役を務めたのが衆議院議員の犬養健だった。長崎から福岡に向かい、雁ノ巣飛行場から内閣が用意した飛行機で一緒に東京に飛んだ。
犬養は、この時の様子を、「飛行機が薄い霧の層をくぐり抜けたのであろう、備後灘あたりと思われる海面が真下にひろく展開された。なるほど揚子江の濁った水を見馴れた康の眼には、ことさらに美しく映るらしい。ちょうど日本人が地中海の青い色に驚嘆するのと同じ具合である。あのケーベル先生が夏目漱石に『蜥蜴の尻尾のいろのように美しい』と言った青紫の潮の色である。」(揚子江は今も流れている)
犬養の文学者の顔がこういう回顧録でも顔を出す。ケーベル先生とはー。
ラファエル・フォン・ケーベル RAPHAEL von KOEBER(1848-1923)明治政府のお雇い外国人として明治26(1893)年に来日。大正3(1914)年まで東京帝国大学で哲学、西洋古典学、美学、美術史を教え、夏目漱石、九鬼周造、和辻哲郎など教え子多数。モスクワ音楽院でチャイコフスキーに学んだ経験を持ち、東京音楽学校でピアノを教えた。
しかし、青い海の色を蜥蜴の尻尾に例えるというのは、どういう感覚だろう。
犬養のこの一節が気になって、改めて夏目漱石の「ケーベル先生」を読んでみた。明治44年7月10日に、漱石がケーベル先生宅(御茶ノ水)を安倍能成とともに訪問した時の話だ。博物学をドイツで修めているケーベル先生は、日本の動植物に関心を持っていたことが分かる。
「先生は昔し烏を飼っておられた。どこから来たか分らないのを餌をやって放し飼にしたのである。」「この夕その烏の事を思い出して、あの烏はどうなりましたと聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留ったまんま、翌日になると死んでいましたと答えられた。」
蜥蜴についての文章は次のようだった。
「その時夕暮の窓際に近く日暮しが来て朗らに鋭どい声を立てたので、卓を囲んだ四人はしばらくそれに耳を傾けた。あの鳴声にも以太利(イタリヤ)の連想があるでしょうと余は先生に尋ねた。これは先生が少し前に蜥蜴が美くしいと云ったので、青く澄んだ以太利の空を思い出させやしませんかと聞いたら、そうだと答えられたからである。しかし日暮しの時には、先生は少し首を傾むけて、いや彼は以太利じゃない、どうも以太利では聞いた事がないように思うと云われた。」
この太字の個所を読んで、犬養の「蜥蜴の尻尾のいろのように美しい」地中海の話ができたようだ。
しかし、これは誤解だ。漱石の記述では、ケーベルは、日本の蜥蜴の青い色が美しいといっただけだ。(日本に生息するニホントカゲの幼体は、尾が鮮やかな青色をしている。)
それを漱石は、「青く澄んだイタリアの空を思い出しませんか」と聞き、「そうだね」と答えたのである。
第一、地中海の海の色でなく、イタリアの空の色である。さらに蜥蜴の青から自発的にイタリアの空の青を連想したのではなく、漱石の誘導で、そういえばそうだ、と答えたのだろう。
ケーベル博士が、瀬戸内海や地中海の鮮やかな青を見て、蜥蜴の尻尾を思い出す人でなかったことが分かった。
この辺の犬養の思い込みは、注意した方がいいのかもしれない。
地中海の猫とウチの猫
ケーベル博士は、音楽でも大きな貢献をし、明治31年「東京音楽学校第一回定期演奏会」で自らピアノ演奏した。それが何の曲だったか、関根和江氏が「ケーベル先生の『シェルツ』-明治31年の音楽会」(2007、東京芸術大学音楽学部紀要)で研究の成果を発表していた。ショパンのスケルツォで、4つあるうち、関根さんは「第1番ロ短調作品20」だと結論を出していた。
明治44年7月10日の夏目漱石の日記には、ケーベル先生の話の要点が書き残されている。演奏会から13年たって、音楽学校に失望している様が伺える。音楽に関する箇所は、
「○日本で音樂家の資格あるものは幸田(延)だけだ。尤もピやニストと云ふ意味で はない。たゞ音樂家と云ふ丈だ。日本人は指丈で彈くからだめだ。頭がないから駄目だ。
○自分が音樂をやるといふ事は日本へ來たら誰にも知らせない筈だつた。處がどうしてかそれが知れた。然しもう近頃は斷然どこへも出ない事に極めた。自分で獨り樂しむ丈である。音樂學校は音樂の學校ぢやない、スカンダルの學校だ。第一あの校長は駄目だ。」
ちなみに、明治40-大正6の校長は、湯原元一(行政が専門)。このあたりの事情も知りたいところだ。