散歩に出た。池畔の道を行くと、梅がほころび、つぐみが跳ねていた。まだ寒いが春到来を感じてうれしくなる。
池にはキンクロハジロが多数。数年前まで多数派だったオナガガモがめっきり減って、キンクロハジロの天下である。冠毛が可愛いのでキンクロは好もしいが、環境変化によるものなのか、単に気まぐれな現象なのか、少なくなったオナガガモが気がかりだ。
さて、タカの話の続きー。
万葉集の彼の歌は、鷹狩りの様子を伺わせてくれる重要な史料になっていた。越中の国司在任中に、家持は「大黒」と名づけ大事にしていたオオタカを、山田史君麿が取り逃がしてしまったことを恨みを込めて長歌にしている。(巻17の4011)
名鷹だったのに、鷹が嫌う雨の日に、留守中に無断で持ち出して放鷹して、しかも、逃げた後も深く追わなかったとは、と山田史君麿の不始末に腹を立て歌っている。
しかし、そのおかげで鷹狩りの様子が伺えるので、後世からすると結果よし、ともいえる。
1)大黒というオオタカは、白塗(鍍銀だろう)の鈴をつけていた
2)腐鼠を餌に鳥網を張って鷹を捕獲しようとした
ことなどが伺える。
巻14(3438)にも、作者不明の
都武賀野に鈴が音きこゆ上志太の殿の仲ちし鳥狩(とがり)すらしも
という歌があり、日本の鷹狩りは、尾羽につけて鈴の音も愉しんだことが分かる。今では、世界の鷹狩りの愛好者が鈴を尾のほかに、足、首につけて愉しんでいるが、遅くとも8世紀には日本で行われていたことが確認される貴重な歌だ。
君麿は、逃げた大黒を取り戻すのに鳥網を張って腐鼠を餌にしているが、通常は雛鷹を捕獲する際にも、生きたハトを囮にする。死んだ鼠を使ったことにも家持は怒っているのかもしれない。
前回紹介した「アラブの鷹狩り」のなかでも、雛鷹の捕獲方法が書かれている。ネットと生餌を用いている。

捕獲者は身を隠して、囮に付けた紐で鷹をおびき寄せて、鳥網に絡める。山田史もこんな風に捕らえようとしたのだろうが、おびき寄せる餌が間違っていた。
だが待てよ。ふと疑問が過ぎった。篤い仏教信者だった聖武天皇は、この大黒の騒ぎの2年前、天平17年9月に「三年の間、全国での一切の鳥獣の殺生を禁断」(続日本紀)していたではないか。放鷹は禁止されていたのだ。家持の「放逸せる鷹の歌」が詠まれたのは、この禁断期間中。
「家持の養鷹、放鷹は違法であった」と秋吉正博氏も「日本古代養鷹の研究」の著作で書いていた。
山田史君麿が生餌を用いず腐鼠を用いた理由は、この聖武天皇の方針にそったからかもしれない。大黒を逃がしたのさえ、「鷹狩り禁止」の政府の方針に従ったためではなかったか。
国司家持の怒りは、部下の君麿が自分の大切な鷹を逃がしただけでなく、聖武天皇の放生の命令に従って、自分の鷹狩をやめさせようとあれこれと企んだためでなかったか。そう考えると、家持の性格やら、部下との関係やら想像でき、万葉集の歌も面白くなってくる。