家持と道真のかささぎの歌

 かささぎ続き。
 大伴家持の歌が、百人一首にある。かささぎが登場する次の歌だ。
 かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
 中国の伝承に、「かささぎの橋」がある。七夕の夜に、織女と牽牛を取り持って、かささぎが天の川の懸け橋になるというものだ。
 家持作の「かささぎの渡せる橋は」の歌は、この伝承を下敷きにしたものだと解釈されている。奈良時代に、日本でもこの伝承が伝わっていたことになる。
 しかし、気になるのは、この和歌が「新古今集」に収められ、家持が編集に参加した奈良時代の「万葉集」にはないことだ。
 そこで、ざっと万葉集の家持の歌を眺めてみた。目立つのは、家持に、七夕の歌が多いことだ。
天平十年(738)七月七日の夜、ひとり天漢(あまのがは)を仰ぎていささか懐を述ぶる一首
天平感宝元年(749)七月七日  天漢を仰ぎ見て、大伴宿祢家持作れり
天平勝宝六年(754) 七夕の歌八首 大伴宿祢家持、ひとり天漢を仰ぎて作れり
 歌を見ると、家持は、天の川は、織姫が船で渡るものとみている。
  織女(たなばた)し 船乗りすらし まそ鏡 よき月夜(つくよ)に 雲立ち渡る
  青波に 袖さへぬれて こぐ船の かし振る程に さ夜ふけなむか
 橋があればいいのに、とも思っている。
  天の川 橋渡せらば その上ゆも い渡らさむを 秋にあらずとも 
 家持は、七夕の関心は人並み以上に強かったが、かささぎが橋を作るという伝承は、万葉集の和歌には登場していない。785年まで生きた家持が、万葉集編纂の後の十数年の間に、かささぎの橋を読んだと考えるしかない。
 それより、中国の知識が入った平安時代に、何者かが家持の歌だとして、作ったのだと考えてはどうだろう。その候補に、「新撰万葉集」を寛平五年(893)に編纂整理して、宇多天皇に献上した学者で、万葉仮名にも、家持の歌にも詳しかったと思われる重要人物がいる。
 菅原道真(845-903)。
 道真には、かささぎの橋を歌った自作がある。
 彦星の 行合を待つ かささぎの と渡る橋を われにかさなん
 道真は、かささぎが橋を作る伝承を知っていた。七夕好きの道真が、七夕好きの大先達家持に共感して、家持の名を借りて、かささぎの橋の歌を作ったのではないか。
 この2作が、万葉集勅撰和歌集に選ばれなかった歌として、13世紀初めの「新古今集」に収められた経緯は分からないが、七夕を通して2人の間には、時代を超えたかささぎの橋がかけられているように思える。