焼かれたカササギはだれの怨霊か

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    AUDUBONのかささぎ
 
 かささぎについて、妙な話(扶桑略記、拾遺往生伝)がある。
 10世紀の初め、平安時代天台宗山門派の僧(玄昭)が、宇多上皇の亭子院で修法中、真言宗の高僧真済の霊がかささぎの姿になって玄昭の前に現われるというものだ。
 
 玄昭がかささぎを護摩壇の火にくべて焼いてしまうと、今度は小人の法師になって現われる。ノイローゼになった玄昭を救うために弟子の浄蔵が霊を調伏する。
 奇妙な話にかささぎが絡んでいる。
 
 真済という僧は空海十大弟子の一人で、僧正に上り詰めた高僧なので、恨んで怨霊となる筈がないと、14世紀の真言僧栄海が異論を唱えて以来、謎になっているという。
 真済を怨霊に仕立てたのは、後世の宗派間の対立、いざこざが原因とされてもいるが、どうも無理がある。
 
 ここで、前に記した菅原道真という補助線をひいてみる。道真はかささぎの歌を平安時代に始めて歌った人物。かささぎの霊は、真済でなく、道真だと考えて入れ替えてみる。
 
 右大臣だった菅原道真は、ライバルの左大臣藤原時平らの讒言にあって、901年大宰府に左遷され、903年に「配所」で病死する。
 道真を追い落とした時平が39歳の若さで亡くなったことから、道真の怨霊によるものと伝えられた。
大鏡」では、道真は雷神となって現れたと書かれている。
扶桑略記」には、時平が道真の怨霊を鎮めるため、浄蔵に祈祷してもらったが、道真が現われ制止したので浄蔵が調伏を辞退。ほどなく時平は死んだとされる。
 
 話を戻すと、かささぎの霊が現われた宇多上皇の亭子院(ていじのいん)は、道真の没年に、皇太夫人藤原温子が移り住んだ処で、温子は道真の怨念の対象時平の妹にあたる。真済の怨霊を沈めた浄蔵は、道真の霊を鎮めようとして失敗した僧であること(「扶桑略記」)。
 
 真済の名を借りているが、かささぎの怨霊は道真と考えるのが自然だろう。「扶桑略記」が書かれた11世紀終わりには、道真といえば「かささぎ」だったのだ。