岩手の海岸には鷹の巣山もあったのだった

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 玄関に、兜をかざる。立派にみえるが、小さな紙の兜。
 2011年5月、不忍ブックストリート(一箱古本市)へでかけ、ついでに都の指定名勝、旧安田楠雄邸によった時のこと。息子が義捐金募集におうじると、紙屏風と一緒に手わたしてくれたのだった。心のこもった紙兜。
 3.11の震災直後で、旧安田邸の玄関脇では、福島いわき産の米もうっていて、家でたべたのだった。
 きょう、被害の大きかった岩手の大槌町で、ボランティア活動をしていたYさんと久しぶりにあった。
 まだまだですね。地面の嵩を3メートルあげて、高さ12メートルの堤防をつくるんだそうです。12メートルの高さだと、海がみえないので、ちかくの吉里吉里では、津波がきてもわからないから恐い、という住民もいます。人手不足で、土木作業の求人が多いですよ。外国人労働者がたくさんはいってきていましたね。
 
 家にもどって、とどいていた古本の「放鷹」をひろげ、江戸時代の「鷹出所名録」をみる。幕府が献上させた鷹の捕獲地だ。
 岩手県の「南部藩」 には、宮古崎など83箇所が名をつらねていた。
「一の森 芋沢 一本松 ・・・・ 豊間根 中志山 千引 沼田 大槌 ・・・」
 大槌もあった。
徳川幕府は東北の諸藩をして毎年十月若しくは十一月これを進献せしめたり。その諸藩は松前津軽・南部・仙台・秋田・会津・新庄とす。これらの藩には巣山を定め巣守を置きてこれを見巡しめたり」
 あの港町の大槌も、城山の方の高台で、鷹をとらえていたのだな、と想像する。
 献上される鷹の種類は、オオタカ雌雄、ハイタカ、コノリ(ハイタカの雄)、ツミ、エッサイ(ツミの雄)、隼とある。
 大槌ではどの隼鷹をとらえたのだろう。
 
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 Yさんとともにみた、1年前の城山からの光景は、こんなだった。鷹のことなど、想像さえできなかった。
 Yさんによれば、今もさほどかわっていない。