鷹に関心のある私は、高さが1メートル超の「松鷹図」の絵馬の存在が気になった。この絵馬で何を祈願したか。
元禄9年7月吉日(1696年8月)に、木戸町品川新右衛門 と、下小塙村古内勘右衛門という人物が奉納した。しらべてみると、1ヶ月前の、元禄9年6月、大きな地震があって、同藩の磐城七浜(小名浜)は津波で、2400人余が命をうしなっていた。
この八幡社には、もう一点、「松鷹図絵馬」があって、半世紀後の、寛保2年7月吉日、1742年8月)に奉納されている。寛保2年8月は、江戸洪水があった。暴風雨で、利根川、荒川、多摩川が氾濫し両国橋、永代橋がながされ、本所、浅草、下谷界隈だけで900人超が溺死した。直後に台風が再度襲来し、さらに関東・信州に大きな被害をもたらした。江戸3大洪水のひとつとされる。
これら松鷹図の絵馬は、水害が二度とないようにという祈り、と関係しているのではないかとおもうようになった。
鷹図絵馬は、今後、転封がないようにという藩主の祈願と、鷹狩りをこのんだ家康との縁を強調するためと理由を考察していた。水害とは関係がなかったか、とおもいつつ、寛永17年(1640年)に奉納されたこの絵馬のころの、松江藩の出来事をしらべてみた。
前年の寛永16年には、斐伊川が氾濫して大洪水の被害にあっていた。それを機に、藩は、暴れ川の斐伊川が宍道湖に東流する工事をおこなっていたのだった。鷹の絵馬が、水難防止の祈願だった可能性も捨てきれない。水神の龍蛇とたたかう鷹が、水難防止のシンボルとなってもおかしくないから。
松鷹図の絵馬にたくした、300年前の人の祈りをあらためておもう。
放射能のせいで、避難生活をしいられているその町の人々をおもう。