未乾の周辺 川田順の恋愛劇と新村出


「日露戦争中の1904年(明治37年)5月8日、第一回戦勝祝賀会で行われた提灯行列で、東京府庁舎(現在の東京国際フォーラム)を通過した一群が馬場先門から二重橋へ向かおうとしました。ところが、馬場先門の橋を渡ったところで通行規制されたため、枡形門の中に多くの人々が押し込められることになり、20名の死者を出す惨事が発生しました」

 千代田区の文化財というHPの馬場先門の項に、上記の歴史的事件が記されていた。

 

 洋画家船川未乾の周辺の人物として、これまで、しばしば書いてきた歌人の川田順は祝賀会の現場に居合わせていた。このとき東京帝大学生で、5人の婦人に同行して、提灯行列の見物に行ったのだった。妹に「男子のかたが居ないと心細いから」と誘われ、九段下の陸軍の偕行社で妹みか子(三井物産社員の妻)、姪杉山若葉、侍従武官某の令嬢と、徳川侯爵家出身の大河内国子とその侍女と待ち合わせた。

 

「葵の女・川田順自叙伝」で川田は当時を振り返っている。「夕刻が近づいたので偕行社を出掛けると、馬場先から二重橋まで提灯の火と人間とで埋もれてゐた。群衆が『コレーッ沈め、ワリヤーク』云々の軍歌をうたひ萬歳を叫んで解散となったが、帰りが大変だ」。

 ワリヤークとは、同年2月に仁川沖海戦で大破され自沈したロシア帝国・防護巡洋艦ヴァリャークらしい。

 6人は「人浪に流されて桜田門に出ようとしたが、日比谷方面から慶應義塾の大群衆が馬場先めがけて逆流して来たので、ボクら六人は門の壁に圧しつけられ、死の苦しみだ。婦人らは悲鳴をあげた」。

 そして事件が起きる。

「その瞬間にB女(国子)はボクを抱きしめた。ボクは震へながら未来を直覚した」

 

 川田は、群衆のなかではじめは、相手は独身だった武官の令嬢だと思ったという。ところが、若き人妻の国子だった。国子は徳川慶喜の八女。歌作り、ヴァイオリン演奏でも知られ、高崎藩主だった大河内家に嫁いでいた。

 

 秘せられ、やがて天下にしられた2人の恋愛劇の始まりだった。

 

    *   *   *

 

 この国子が昭和16年に亡くなった後、『広辞苑』の編集で知られる新村出が平林寺に墓参りして、20首も国子に挽歌を捧げている。はじめは理由が分からなかった。

 木枯は今日はな吹きそ武蔵野にむかしの君のみ墓訪ふ日を

 

 20首の最後は、

 神無月けやきのもみぢ時雨せばふたたび訪はむ君が於久都奇(おくつき)

 

 おくつき(墓)を、大伴家持の用いた万葉仮名を用いて表記し、「大伴の遠つ神祖の奥つ城は著(しる)く標(しめ)立て人の知るべく」の歌のように、「著く標立て人の知るべく」ことを願ったかのように思われた。

 

 川田が、新村と国子の関係を書いていた。

「ボクは新村先生から少女時代のB女のことを聞いた。先生の厳君(関口隆吉)は旧幕臣で慶喜公に側近し、御一新後は山口県令となり、先生の養父(新村猛雄)は公の小姓頭で、大政返還の歴史的建議の時は公の背後に剣を持って侍座した。又、先生の義姉(新村信子)は公の側近となって、慶久その他の子女を生んだ。かようの因縁で先生は少年、青年の頃に徳川の大奥に出入し、公の子女らのお相手になった。B女らと蛍狩や舟遊びをした。B女を背中におんぶしたこともあった。一緒に歌ガルタもとった」。 

 新村は、旧幕臣の家族として若い頃、徳川家の姫様の相手をしていたのだった。

 

 洋画家船川未乾が、装幀を切っ掛けにたびたび合うようになった神戸住まいの川田と、未乾の活動を見守っていた京都帝大の新村が、こんな因縁を持っていたのだった。

 

 国子の娘夫婦に許されて墓参りした時の川田の歌はー。

 石しろき大名の墓所に葬られ君は全く隔たりたまふ

 

 写真は、川田の歌集「鵲」(昭和6年)。発刊時のパーティで国子は、鵲の刺繍をした丸帯を締めて現れ、二人の仲はしれるようになったという。