唐山を択んだ石川淳

 支那の表記で思い出したのが、作家石川淳の独特のスタンスだ。

 手元に、東洋史の学者桑原隲蔵(くわばら・じつぞう、1871-1931)の著作「中國の孝道」について触れた文章(1968年)がある。(「中國の孝道」を讀む)

 

 桑原先生が昭和二年に上梓したときは「支那の孝道」という題だったが、戦後再刊された時「中國の孝道」と出版社が変えたのだった。

 

 石川は、呼称がシックリとこなかった。「(著作の)内容は多く清朝以前の舊事に係ってゐて、今日のことにはわたらない。(中略)かの『支那』といふことばはすでに一般にはおこなはれない。さりとて、これを中国といつてはどうも語感が今日的にひびくやうにおもふ」と、中国でもなし、支那でもない呼称を探す。

「そこで、わたくしは今ほしいままに唐山といふ舊弊なことばを使ふ」

 

 唐山。石川はほかの文章でも使っている。

 同じように、もろこしを意味する唐土、漢土でなく「唐山」を選んだところが、この作家ならではと感心するが、残念ながら、いま全く普及していない。

 

 石川は、この文章を書いた前年1967年、67歳の時、川端康成(67)、三島由紀夫(42)、安部公房(42)とともに、帝国ホテルで「文化大革命に関する声明」を発表した。中国国内で吹き荒れる紅衛兵言論弾圧に、4人の政治的立場は別ながら、一緒に抗議をしたのだった。当時、日本国内では、文化大革命を変革運動として肯定的にとらえる意見も存在した。閉ざされた中国から正確な情報が伝わっていなかったせいもある。きっぱりと批判した文学者は彼らだけだった。

 

 例えば、この2ヵ月後、作家の武田泰淳有吉佐和子などとともに、中日文化交流協会の招きで訪中している。清からの独立のため決起し、殺害された女性革命家秋瑾を、武田泰淳は小説にしていた。最近その小説「秋風秋雨人を愁殺す」を読み直したところ、小説の締めの部分に気になる個所があった。

 武田は、67年4月の招待旅行中、秋瑾の故郷、紹興に別途頼み込んで有吉らと訪ねたのだった。

 こう書いてある。なぜか「工場は、その日の午後は休みで、労働者の多くは記録映画見物に出はらっていましたが、あなた(秋瑾)の愛好したコハク色の紹興老酒、および最新式のさまざまな酒を静かにかもしだしていたのでした」。

 酒造工場に人がいない? 映画? 

 和久井幸助「私の中国人ノート」で確かめると、1967年5月29日に、近くの杭州で大規模な武闘が発生していた。文革をめぐって当時多くの人間が殺しあう衝突が起きており、当然、殺気立った雰囲気が紹興にもあっただろう。それを隠すために、日本人視察団が来る工場から労働者を閉め出していたのではないか。

 秋瑾への感傷にふけっていた武田泰淳は、現場に居てさえ、足元で起きている出来事に気づかなかった。

 何事も、見ようとしないと、見えないのではないか。

 4人の文学者、とくに石川の慧眼にあらためて敬意を払うしかない。