船は隼、鷲であり、コノリでもあった説

 舟は、ワシタカに例えられていたのだなあ、沖縄の事物、歴史に触れるにつけて、思うことが多い。
 陰暦5月4日に行われてきたハーレー「爬竜船」の競漕。
 
 船は「隼」と言われた。前に紹介した松田毅一少年の「台湾・沖縄の旅」には、昭和10年代の那覇のハーレーのことが書かれていた。那覇、久米、泊の三隻が出走し、那覇の船「隼(ヘンサ)」は「日本」、久米の隼は「支那」、泊の隼は「沖縄」の象徴として、競ったのだという。
 
「競技が始まると観衆は那覇の隼! 久米の隼! 泊の隼!と唱え盛んに応援をした」と書かれている。
 
 八重山民謡の「鷲ゆんた」の、鷲(バシ)も、船のことと指摘した人が居た。(誰だったか、本を漁って、必死に探しているのだが、思い出せない。)
 
 そもそも、弥生時代に「鳥船」の絵が残っているので、鳥と船は関係ガ深いが、鳥船が、ワシタカと関係あったのかどうか判らない。
 
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「日本文化の古層」に紹介された下関の鳥型精霊船や台湾ヤミ族の鳥の羽で飾った船
 
 むしろ、僕は日本書紀応神天皇の巻十(例の山田史御方が書いた)の次の一節が気になって入る。 「(5年の)冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かべると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名づけて枯野(からの)といった。
  -船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。もしかすると軽野といったのを、後の人がなまったからではなかろうか」(宇治谷孟講談社学術文庫
 
 学者の中にも、枯野=カヌー説まで飛び出しているほどだが、僕はkareno カレノはkanore、カノレだったのではないか、と推測している。
 サンザカか、サザンカになったように、re とno が入れ替わったと。
 
 また万葉集の東歌には、母音が訛ったものが多い。「子等」は、「こら」でなく、「ころ」(raがro に)、「気に」は、「きに」でなく「けに」(kiがkeに)。伊豆も東国である。
 
 では、カノレはなにか。コノリのことだ。鷹のハイタカの雄だ。
 
 狩りでは、雄は使われないのが普通だが、ハイタカの雄、コノリは別だ。鶉や小鳥、特に雲雀を捕えた。
 14世紀はじめの「夫木集」(ふぼくしゅう)には、コノリが出てくる。
 
 「雲雀捕るこのり手にすえ駒並めて秋の刈田に出でぬ日ぞなき
 
 ハイタカの雄だから、もちろん速く天翔ける。速い船に、名付けるにはピタリだろう。
 
 
 
 追記
  昭和12年に上梓された松田毅一「台湾・沖縄の旅」は、即発禁になったことが判った。自著「わたしの旅路」(文春)で、次のように書いていた。
  「私が16歳、中学4年生の時に多数の写真入りの当時としては華麗な270ページの書物となって出版された。O・S・K提供の写真はすべて憲兵隊司令部の許可済のものであったにも関わらず、戦局が急速に悪化して、私のどの記述が軍機に触れているのか判らぬまま同書は禁書となって、古書店にあったものまで軍部に没収され廃棄されてしまった
 
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