田崎草雲と神田明神

 仕事始め。昼休みに近所の中華店へ行く。若い主人が、元旦神田明神に参拝後、目撃した淡路町の交差点での自動車炎上事故の動画を見せてくれた。スタバの前で、火と煙が立ちのぼっていて、消防、警察が駆けつけている。報道もなく、知らない出来事だった。

 店には他に客がいない。ちょうど、緊急事態宣言が再発令されるとのニュースが出たところで、困り切っていた。元旦の神田明神も空いていたという。熊手を買うにも、例年と違ってすぐ買えたそうだ。

 

 幕末から明治初めに活躍した足利の画家、田崎草雲を描いた小室翠雲「田崎草雲先生の生涯」(昭和5年)の古書を手に入れて読んでいるのだが、神田明神の御利益が出てきた。商売繁盛ばかりか、縁結び、子作りなどにも霊験あらたからしい。

 

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 草雲の父は武士で、神田小川町(元鷹匠町)にあった足利藩戸田邸内で暮らしていた(今は新高層ビルBIZCOREが建つ)。

 神田明神に参詣した夜、父は夢を見たのだという。神様が差し出した美しい白の碁石1個を、妻が押し頂いてぐっと呑み込んだ、というものだった。それから妻は身重になり、男子を出産、それが草雲だった。

 

 司馬遼太郎は、画家・草雲について、明治維新直後に足利藩を守った知恵者の指導者として描いていて印象深いが、伝記には、幕末の江戸で暮らしに困り、妻の弟(文蔵)や兄(新兵衛)と浅草に紙鳶(たこ)を売りに出た逸話が描かれていた。浅草の並木の辻というから、雷門から駒形堂へ抜ける道のいずれかの交差点あたり。

 

「草雲先生は手拭で頬冠りして顔を隠す、文蔵が骨に紙を貼ると、直ぐ先生が画を描く、画が出来上がると新兵衛が糸目を付けると云ふ役割。面白い風の変わった紙鳶であるとて、人足が賑々しく止る、道行く子供等は「やアやアお侍が紙鳶を売って居る」などと珍しがり、却て異様な姿が評判にな」り、「年の瀬の苦るしい所を超えられたのである」としている。  

 

 武士三人による街頭実演販売。商才も持ち合わせていたようだ。

 

 母が神田明神の白い碁石を呑んで受胎したというだけに、この商才も、明神さまの御利益といえないこともない。

 

 中華店に飾られた熊手をチラ見しながら、この店も明神様の御利益プラス商才でコロナ不況を無事越せればいいがなあ、と思った。