大竹政直の絵にのこるキツネと火焔宝珠

 江戸の稲荷信仰で、キツネと火焔宝珠について調べると、前に書いた幕末から明治初期の絵師、大竹政直の「江戸市中世渡り種」にいきあたった。
 
「江戸市中―」は、明治25年に、消えゆく江戸の名残りの商売を事細かにかきのこしたものだ。稲荷の縁日に出たとおもわれる「絵馬売」。その絵馬をみてみるとー。
 
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 火焔宝珠を中央にえがいた絵馬=右
 小さな火焔宝珠を左右からみつめるきつねの絵馬=左
 
 この2種類が神社に奉納するために売られていたことがわかる。江戸でも、稲荷といえば火焔宝珠といった風に、江戸っ子にしたしまれていた様子がしれる。
 
 稲荷ずしの屋台でもー。
 
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 大きなキツネの面を染めた幟を立てている竿の先に、ちゃんと宝珠がつけられている。このころまでは、かろうじて稲荷ずしの屋台や、稲荷の絵馬売がみられたのだろうが、絵馬売については「今は此事も少なくなりて昔時のやうには売れず」とかかれている。
 明治25年(1892年)前後には、江戸時代に盛んだった稲荷信仰も、おさまってしまい、火焔宝珠のグッズも消えていく運命となったようだ。
 
 火焔宝珠が今も、お焚き祭りや、まんじゅうの刻印でのこる京都と対照的に、東都では、火焔宝珠の印象がうすれ、キツネがまんじゅうでのこる程度になった過程が少し覗けるようだ。