平安時代の古謡にクチが出てきた

 仁徳紀に、日本の放鷹が「倶知(クチ)」という鳥で始まったと記されていること、そのクチは中国でハヤブサの別称「鹘(コツ)」であること、仁徳紀の鷹狩はハヤブサで行われたものだろうと、以前に書いた。
 
 その後、東洋史学の白鳥庫吉(くらきち)氏の論文を当たると、海外諸文献を当たった結果、クチは「鹘」という結論に早々とたどり着いていたことを知った。
  大正15年「本邦の鷹匠起源伝説に就いて」。先人の学究は、すごいと思った。
 
 イメージ 1
                                 
  最近、平安時代の古謡を集めた「承徳本古謡集」をめくっていたら、「〇伊勢風俗」と題名のついた240番の古謡に、こんなのがあった。
 
 「伊勢の海なるや はれ
  小伊勢の海なるや
  鷹等(くちら)の寄る島の
  百枝の松の八百枝の松のや
  今こそ枝さして
  本の富せめや」
 
 伊勢の海の、鷹等が寄る島の、松の枝を差して、松が増えるように、富み栄えよう
 
 といった歌なのだろうか。松の枝を、田に差して豊穣を願う行事がいまもあるから、縁起ものの歌なのだろうか。
 目を惹いたのは、「鷹等」という箇所に、「くちら」とルビがあったことだ。平安時代に、「鷹」を「クチ」と読む例があったことになる。
 
 伊勢の海は、海の向こうに伊良湖岬がある。10月、南方に渡る鷹、サシバ、ハチクマが千羽、万羽の群れを作り、伊良湖岬を通ることで知られる。また、ハヤブサ、ミサゴが棲む鷹の宝庫である。
 
 江戸時代、松尾芭蕉 
 鷹一つ 見付けてうれし いらご崎
 
 の句を作ったのは此処であり、「笈の小文」には、この辺りに「骨山」といわれる場所があったことを記している。
骨山(こつやま)と云(いふ)ハ鷹を打処(うつところ)なり」。
 鷹をクチと呼んでいたいたことから、「骨山」になったのだろう。さらにいえば、クチ=ハヤブサを捕獲した「クチ山」が、「骨山」になって名が残ったのだろうと推測できる。
 
 クチという言葉から想像すると、オオタカ等を用いた鷹狩(Hawking)とは別種のハヤブサを用いた放鷹(Falconry)の文化が百済から移入され、伊良湖岬あたりで栄えていたのではなかったか、と想像したくなる。