山田史はタカに縁があることが判った

 日本書紀の述作者については、森博達さんが解明に近い分析をしている。日本書紀の謎を解く」(中公新書)で、巻1から巻12までと、巻22、23は、山田史御方(やまだのふひと・みかた)が書いたとしている。
 先に記した、金鵄の巻3、倶知という鷹の巻11も、山田史が担当したことになる。
 
 古事記と比較して、巻12まで、読み通してみた。ともに鳥が各種出てくる。鳥に対して、古代日本人は深い関心を持っていたことが感じられる。
 
 山田史は、鳥に対して、特に猛禽類に対して、古事記作者とは違う見方をしていた。
 神武東征で活躍したヤタガラスは、古事記にも出るが、金鵄は書紀にしか出てこない。
 山田史のオリジナルということになる。
 
 仁徳天皇に反乱をした、速総別(ハヤブサワケ)の話は、記紀方に出てくるが、鷹狩りの始まり、倶知の放鷹は、書紀のみ。これも山田史のオリジナルだ。
 
 逆に鷹関連では、垂仁記紀、ともにクグイ=白鳥の話は出てくるが、大タカ(タカは、漢字で、左が帝、右が鳥)を放って、クグイを捕まえさようとした話は、古事記に限られる。山田史は白鳥を狩る大タカのエピソードを避け、放鷹は後世、仁徳年間に百済から持ち込まれたもの、と整合性をつけている。
  
 仁徳天皇の名は、オオササギ=小鳥のミソザザイだが、本来は「木兎(つく)」であり、武内宿禰応神天皇が子供の名を交換したのだと、書紀のみ書いている。仁徳帝は猛禽類のツク=フクロウの名を初めは持っていた、と山田史はあえて記している。
 
          古事記  日本書紀
 
トビ(ハイタカ)   ●    ○
大タカ        ○    ●
ハヤブサ       ○    ○
ツク         ●    ○
 
 記紀では、ハヤブサは、ハヤブサワケや、隼人(祖先は海幸彦)など、王者(オオササギ尊、山幸彦)に対して敗れたもの、という位置を占めている。
 特に、古事記の作者には、王権のシンボルをワシタカ類にする考えが欠けているように見える。
 
 山田史の方は、猛禽類を王権に結びつけようとしている。そのためか、悪役になってしまったハヤブサを越える鳥として、神武東征で、トビ(ハイタカ)を登場させ、善政の象徴、仁徳帝にツクを関連付けて、古事記にはない猛禽類を、登場させている。
 
 山田史は、新羅に学問僧として留学し、帰国後、文武年間に日本書紀の編修に携わった。猛禽を帝王の象徴とするのは、新羅で学んだことなのか、どうか。
 
 50年後、越中国司・大伴家持から愛鷹のオオタカ「大黒」を逃がしてしまったことで、叱責されるのが、前に書いたように、同じ姓の山田史君麿だ。
 
 恐らく、御方と君麿は、非常に近い関係だろう。山田史は、ともに鷹と縁が深いことが伺われる。
 
(続く)