モンゴルでは、月がどんな風に見られているか。探していた絵本がやっと見つかった。

ダシュドンドクの「父母私」で、ご覧の「月の上の娘」には、次のような文章が付いている。
《月の上に何がいる
よく見れば
天秤棒で桶を運ぶ
小さな女の子
満月の上の
女の子は
夕べ水を汲み
夜明けまで運んでいる
遠い月の
働き者の娘は
月が飲む
桶一杯の水を担いでいる》
月の陰影に、水汲みの少女の姿を見ているわけで、餅つきの兎を見る日本とは違っている。
ユーラシア大陸、ヨーロッパでは、人間がなんらかの理由で月に据えられたー
という民間信仰が多いのだそうだ。
アカリヤザカマは「変若水(おち)と、死水の2つの桶を担いでいった。
若返りの変若水を人間に、死水はヘビに浴びせよ、との指令だったが
大蛇が変若水を浴びてしまい、やむなく人間に死水をかけて戻った。
お天道さまが怒って、罰として、月の上に桶をかついで永遠に立っているように命じた。
アカリヤザカマの性別は分からないが、モンゴルの説話と共通点が多い。
脱皮するヘビが永久の命を持っているとされていたため、死と不死の話にヘビが出てきたのだろう。
太平洋を南に向かうと、ポリネシアにも、月の上の女神の民話が残っている。
さてさて、きょう、英会話でスチュワート先生と、女王陛下の前で、尻を出した豪州の男の話になり、尻を出すという表現は英語で「TO MOON」なのだと、知った。MOONが動詞に使われている。
「尻は、月なんですか」
「そう、似てるからね」
「しかし、満ち欠けがないじゃないですか、尻に」
月を尻に例える感覚は、日本にないのではないか。
月に柄をさしたらばよき団扇かな
山崎宗鑑もまさか、月を尻に見立てたら、こんな句は作らなかったろうし、とあらぬことを考えてしまう。
まあ、少女だって尻には住みたくないだろうに。