昭和12年、少年が描いた沖縄・普天間

 大阪府天王寺中学(現・高校)の一生徒が、昭和12年に、台湾と沖縄を旅し、立派な本を上梓した。松田毅一少年の「台湾・沖縄の旅」(学校印刷、1円20銭)。
 
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 神保町で、辞書を作っている知人と会い、「最近は中国、台湾からの旅行者が神保町の古本屋を漁っていて、大量に買って帰っているみたいだ」との話を聞き、なんだ か、ちょっと焦って、小宮山書店に入って、本を購入したのだ。
   17歳の少年は、前年の台湾旅行についで、大阪商船主催第2回沖縄視察団の 一員として、神戸から沖縄へ浮島丸の処女航海に乗船した。
   この年、日中戦争が始まり、時代の空気も窮屈になってきた頃だが、快適な船旅だったようで、「処女航海」にメイドンボエージ、「異国情緒」にエキゾチズムと ルビをつけ、「雁首形(コールヘッド)のベンテイレーターが幾本か新しいデッキのチークの色と蒼空にとけ込む」など、カタカナ表現が目立つ文章を書いている。
   目に付いたのは、彼の撮影した沖縄の写真は、女性が海辺で佇むものまで、「那覇憲兵隊検閲済」と注釈がついていることだ。  当時憲兵隊は熊本憲兵管区に所属していたはずだ。
    本の中で、那覇上陸の際、
 「この島は要塞地帯となって居りますから写真機御携帯の方々は、御面倒ですが名刺を戴きたいと存じます。写真を撮ってもいい所は私が申しますが、其の他の処は御遠慮下さい」
   と言われたことが記されていて、少し事情が伺える。 
 
 紀行文には、沖縄戦で米軍に焼かれる前の、美しい沖縄の風光が描かれている。
 「何時の間にか松林の美しい街道を走っている。暫くの間だと思っていたのが何処迄も続いている。稀に見る美麗な赤松巨木が連っている。東海道の松林等は比較にならない。比較どころか全く超越した美しさで、数里の間同じ様に出迎えている。白い立札に「天然記念物宜野湾松林」とあるのを見一層興味を増す」 
  普天間宮に続く宜野湾の「普天間街道」のあたりだ。 
  少年の見た松は、直に、戦争の資材確保のため多くが伐採され、8年後には沖縄戦で焼きつくされてしまう。そして、戦後、「米軍普天間飛行場」と化し、海兵隊がやってきた。 
  毅一君は、帰路もピカピカの浮島丸に乗船する。
  しかし、この貨客船浮島丸もまた、思いがけぬ運命が待っていた。 
  4年後に海軍に徴用され、軍艦となる。特設巡洋艦から、特設砲艦へ。 
  終戦直後、青森・大湊から朝鮮労働者、家族3725人を乗せ、釜山に向う任務についた。立ち寄った舞鶴湾内で、米軍敷設の機雷に触れ爆沈。朝鮮労働者家500人以上が死亡した。不可解な沈没原因について、論争が続いている。 
  時代というのは、10年も経たずに、一気に大胆に変ってしまう。 
  きっと、出口がないように見える現代も同じで、悪いほうへもいい方へも、10足らずで、大きく変えることができるのだろう。
 
  この少年は、どうなったのだろう。 
  戦後、「天正少年使節団」「黄金のゴア盛衰記」を書き、ルイス・フロイスの「日本史」を翻訳し、ポルトガルやスペインと日本の関係史を開拓した、学者の松田毅一先生19215月1 - 19975月18その人なのだろうか。 
  もし、同一人物なら(きっとそうだろう)、少年は南海への憧れを持ち続けて、南シナ海マラッカ海峡、インド洋、ペルシャ湾、地中海へとたどり着く仕事をやり遂げたことになる。
 本によると、少年は、宜野湾、普天間から嘉手納へ向う。
 「小殷賑をなしている嘉手納の聚落を過ぎる。県鉄(鉄道が通っていたのだ!)は此処迄至り、以北は自動車交通による外ないのである。バナナが茂り小さい乍らに実が上を向いて垂れて居り嘉手納を出て更に二里、中頭郡国頭郡の境を突破。石川港との間暫か一里、本島随一の狭所に出る。『仲ヨク助ケアッテ、楽シク暮セ。』とあ立札もほほえましい。」
 (続く)