詩人ボヤンヒシグの青空を想う

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 美しいモンゴルの空と大地。
 商業看板がない景観がいかに美しいか。モンゴルや、韓国の南部の農村地帯を旅した時に痛感した。CMのない世界は、寂しいけれど、美しいに違いない。
 
 昔は、社会主義と資本主義が対立していて、世界は比較的単純だった。中国、モンゴル人民共和国ソ連邦を旅したおかげで、いやというほど、社会主義が息苦しい、嫌な世界だという事がわかったけれど、じゃあ、自由な資本主義がいいのかというと、今、お金や情報を持った人と、貧窮した人たちの格差が、世界中で広がってしまった上、それを異議を唱える倫理観まで失われてしまった、と思っている。ニヒリズムが幅を利かせて、夢や志は茶化されがちだ。
  きょう、東京で7年住んでいた、内モンゴルの詩人ボヤンヒシグの詩を読んだ。
 
故里
 
地図で探せば
故里は一滴の涙
 
泣かないで
と母から手紙がくる
それを読みながら
私は泣く
 
涸れることのないその涙は
温かく潤してくれる
 
故里は地図の上から
涙の目で私をみつめている
永遠の青空を大きくするために
私は故里を遠く
離れている
 
 
 永遠の青空を大きくするため、この謎めいた言葉が、ボヤンヒシグの志であり、夢であるらしい。(はじめは「青雲の志」のことかと思ったけれど)
 
 この詩人は別のところで語っている。蒼窮の国、モンゴルでは、青空が人の心も世界も支配している、草原のすべての生命は、つかの間の生のあと、青い空へ戻って行くものなのだと。詩人の志は、そんな永遠の青空を大きくすることというのだー。
 
 僕ら日本に生まれたものにとって、「永遠の青い空」とは、何に当たるのだろう。ふと、思考が、ここで、立ち往生してしまった。
 
 
 
       ボヤンヒシグ「ナラン(日本)への置手紙 懐情の原形」(英治出版