有楽町駅前の横丁に「ウクライナ」というカフェがあった、と高田保(1895-1952)が書いている。
大正11年(1922年)前後らしい。ウクライナ人の主人が料理と酒を出し、ロシア革命に追われて亡命してきた白系ロシアの連中の溜まり場になっていた。ウクライナの出身の客が中心だったのだろうが、中にはポーランドの侯爵夫妻もおり、浅草オペラの金龍館に勤めていた高田もその一人だった。
ある日、横浜にバレエの天才ニジンスキーが逃げて来ているので、契約してほしいと日本人の男が金龍館にやってきた。高田は支配人代理として、本牧の外人ホテルでのショーを見に行くと「ダンシング・エキジビション・ハイ・ポール・ニジンスキイ」と貼り紙があったという。小さな字の「ポール」には高田は気づかなかった。
30人ほどの亡命外国人の客の前で、キーウ出身の女の踊り子がイサドラ・ダンカンのように踊った後で、ロシアバレエ団の「バラの精」の扮装でいよいよニジンスキーが登場したのだった。
男は舞台袖から、バタバタと音を立てて舞台に現れると、円盤投げの恰好をして見せた。あまりにひどい動き(コミカルなので客は笑っている)。これは誰だとプログラムを見て確かめると、「ポール」の名に気づいたという。ヴァーツラフ・ニジンスキーでないではないか。
楽屋で男に
「君は、ポール・ニジンスキーなのか、ヴァーツラフ・ニジンスキーなのか」
と問いただすと、男は
「おお、君はそれを知って居るのか。私は飛行機乗りである」と答えたという。
「飛行機とニジンスキーはどんな関係がある」
「ない、しかし私は何べんもニジンスキーを見たことがある」
高田はこの男になんとなく好意をもったという。
2か月後、有楽町の「ウクライナ」の主人が、ホテル精養軒でのダンスの会のチケット10枚を買って下さい、と高田に頼んだという。ニジンスキーが米国渡航費を集めるダンスの会を開くのだった。
「アメリカへ渡れば彼は決してダンスの会なぞやりはしないでしょう。彼はダンスは駄目なのです。でも、ほかに彼はお金を集める方法がないのです」と主人は正直に話した。
主人によれば、ポール・ニジンスキーは飛行機乗りでもなく、ただの商売人(ビジネスマン)だという。
高田は、「そんなことはどうでもいい。彼のポケットを膨らましてあげよう」と10枚どころか、高田は浅草オペラの連中をできるだけ誘って、会場へ乗り込むことを約束した。
当日、高田雅夫・せい子夫妻、田谷力三、北村猛夫、竹内平吉ら当時の浅草の人気スターらがこぞってポール・ニジンスキーの踊りを見に繰り出したのだった。
高田保「河童ひょうろん」(要書房、1953年)で見つけた随筆で、浅草オペラの人たちの優しさ、心意気が伝わってくる。
天才ニジンスキーもキーウ生まれのウクライナ人だったのだ、とあらためて気づくことになった。