浮世絵猫の尻尾は3タイプ

 幕末から明治初頭に活躍した仮名垣魯文(1829-1894)は、芸妓を猫と言い出したことで知られる。芸妓の内幕を描き、「猫々奇聞」「猫晒落誌」などのタイトルで連載して評判になったという。

 自ら猫々道人(みょうみょうどうじん)と名乗り、また榎本武揚から貰い受けた「山猫」の番いを1年ほど飼ったとされるが、魯文が本当に猫好きだったのか、よく分からない。芸妓は芸妓、猫は猫として好きになればいいものを一緒くたにしているからだ。

 

 明治11年に和同開珍社から刊行した「百猫画譜」は、芸妓を猫に例えた文章を集めたもので、猫の絵は「立斎広重」、三代目歌川広重(後藤寅吉)が起用されている。

 

 

 若いころは安藤広重と教えられたが、今は「歌川広重」で通っているという。東海道五十三次で知られる初代広重(1797-1858)の娘のお辰と結婚した森田鎮平が二代目を継いだが家を出てしまい、お辰が再婚した後藤寅吉が三代目を継いだという。

 三代目は、文明開化の様子を描いた横浜絵、開化絵で知られたが、魯文の依頼でこれらの猫を描いたようだ。

 

 猫の尾に注目してみた。江戸から開化期の浮世絵に描かれた猫の尾は、

A 丸まった尾(ボブテイル)

B 短い尾

C 長い尾

の3通りある。

 

  



 鍬形蕙斎(上右)、葛飾北斎(上左)は、Cタイプの尾の長い猫が多い。

 

 国芳(上)は、Bタイプの短い尾の猫を好んだ。

 

 それに対して、初代広重(上)の描く猫は、Aタイプのボブテイル。

 

 三代目広重の猫たちもまたごらんの通り、Aタイプのボブテイルがごっそり。初代広重の猫の描き方を踏襲しているらしい。

 

 一門でもタイプの違う尾を描いているケースもある。Bタイプの国芳門下の歌川芳藤は、はめ絵でCタイプの長いシッポの猫を描いている。(下図=「小猫を集めて大猫にする」)

 浮世絵師たちにも猫の尾っぽの描き方の好みがあったのではないかと、「百猫画譜」を眺めながら思った。