正月の翁に齢を聞くな

 門松や冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし という正月に、老人に齢を聞く人がいる。困ったものだ。

 

 80歳を超える長生きをした江戸時代の俳諧師横井也有(1702-1783)も新年に齢を聞かれたらしい。

 俳文集「鶉衣」に、いきさつを書いた「歳旦の口號」を残している。

 

 舞津に久しく、かくろへて棲む翁あり、年明けていくつぞと人の問ひしかば、

 もとより絳縣の老人のむつかしき、なそなそは知るべくもあらず、かた腹いたき歌よみて答ける。

 

 舞津で長く隠居する翁とは、也有自身らしい。舞津ならぬ前津で隠居していた。

 

 ≪元旦、年齢を訊ねる人がいたので、絳縣(こうけん)の老人のようになぞなぞめいた難しい答え方は知らないので、おかしな歌を読んで答えた。≫

 

「絳縣の老人」を調べると、「春秋左氏伝」の襄公三十年(紀元前6世紀)に出てくる中国(現山西省)絳縣に住む大昔の翁だった。

 子もなく独り暮らしていた老人は、歳を聞かれ、「正月の甲子の朔に生まれ、445回甲子が巡った」と答えたという。

 それを師曠という男が計算し、甲子(きのえね)は60日に一度来るので、60日×445=2万6700日。365日で割ると、73.15年。73歳だと解いた。

 


 また、老人は「亥」と名乗っていたので、史趙、士文伯はこれを解き、「亥」の古い字体は首が二、身は六が三つあるので、2万6660。2万6660日≒73歳と割り出したという。

 

 也有はこんなめんどくさい謎解きでなく歌で答えたのだった。その歌とはー。

 

 足らて(で)死ぬといひし四十もふたり前、

 つれつれ草に面目もなし。

 

 吉田兼好が書いた「徒然草」の7段をもとに歌にしたのだった。

 

「世は定めなきこそいみじけれ」「命長ければ辱(はぢ)多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。/そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき」

 

 人は40歳前に没するのがちょどよい、その後の人生は恥を忘れ、世を楽しもうと貪欲な姿を見せてあさましいものだ。(あくまで兼好法師個人の感想です)。

 

 也有は、「四十もふたり前」、40×2=80歳まで生きてしまって、兼好法師に面目が立たない、と歌ったのだった。

 

 気になったので、兼好法師の享年を調べると、正確には判明していないが、1283年頃に生まれ、1352年以降まで生きていた証拠があるという。なにが40歳前、70歳ではないか。(金言、箴言といえど、言葉を信じ込まない方がいいようだ。)

 

 今春からは、「也有には遠く、兼好に近し」と答えるか、或は、宝塚スターのように「年齢非公開」で押し通そうか。