古本に挟まっていたカラヤン公演の名残

 昼すぎ事務所を出て、神田神保町あたりを散策する。街は女子高生、大学生、本探しの高齢者、そして海外からの観光客で賑わいが回復しつつある。古レコード店の御主人も何年かぶりに雑貨の仕入れにネパールへ出かけ、戻ってきた。

 古本街の店外に置かれている廉価本を眺めて歩く。重い本を何冊も手に入れて戻った。大田黒元雄「大作曲家物語」(昭和24年、湖山社)を見つけて、ついでに買った。

 本を開くと、何やら挟まっていた。前の持ち主が栞替わりにしたものらしい。2つ折りにされたチケット袋で捨てようとすると、袋に「BERLINER PHILHARMONISCHES ORCHESTER」と古風な書体で印刷されてあるのに気づいた。

 NHKのマークと「Conducted by Herbert von Karajan」の文字もある。カラヤン指揮ベルリンフィルの公演チケットの袋のようだった。

 



 私はシャーロック・ホームズが好きなもので、つい探ってみたくなる。

 カラヤンの来日公演は

 1954年 NHK交響楽団客演指揮

 1957年 ベルリンフィル初来日公演

 1959年 ウィーンフィル

 1966年 ベルリンフィル

 以後 70年、73年、77年、79年、81年、84年、88年ベルリンフィル

 

 このチケットは、赤字のいずれかに相当することに間違いはない。本には、ほかに新聞記事の写真の切り抜きが挟んであった。写真のキャプションには、卓球の富田がバーグマンを破ったとだけ記されていた。

 卓球界で富田と言えば富田芳雄選手で、現役時代に英国のリチャード・バーグマン選手が活躍していたことも分かった。1956年東京開催の23回世界卓球選手権大会、男子シングルスの準々決勝で、富田はバーグマンを3-1で破って銅メダルを獲得している。記事はその時のものらしい。(富田は準決勝で荻村伊智朗と対戦し敗北。荻村は金を獲得した)

 

 以上の事実から、カラヤン公演は翌1957年のものと推測された。日独文化協定記念のイベントで110名のフルメンバーが来日したのだという。国内で11月3日から同22日までなんと15公演が開催された。(東京では日比谷公会堂東京体育館、旧NHKホール)

 この時のチケット入れがこれだったようだ。

 本の持ち主は、何を聴いたのだろうか。NHKホールは、ワーグナーマイスタージンガー前奏曲」、R・シュトラウスドン・ファン」、ベートーベン「交響曲5番」が演目で、日比谷公会堂などでは、ベートーベン「英雄」、交響曲7番、ブラームス交響曲1,2番、モーツアルト「ハフナー」「プラハ」、シューベルト「未完成」、ストラヴィンスキー火の鳥組曲」などが演奏されていた。ドイツ生まれの作曲家の作品が大半だが、ストラヴィンスキードボルザークなども少しながら混じっている。

 

 日独文化協定なるものもついでに調べると、日本と西独(東西ドイツ統一は1990年)との文化交流の増進を図る目的で、1957年2月14日、岸信介首相と、ドイツ連邦共和国のハルシュタイン外務次官が外務省で署名調印したものだった。文化協定はフランス、ブラジル、イタリア、メキシコ、タイ、インドとすでに締結していて、7番目。両国間の刊行物の交換、美術、音楽、演劇、映画等の交流、学者、留学生の交換など文化学術関係の強化促進を成文化している。

 ベルリンフィルの来日公演は、協定調印を記念しての大規模イベントであり、その後の日本でのカラヤン人気に繋がって行くのだった。

 この年、コカ・コーラが日本で発売され、長嶋茂雄プロ野球入り。上野動物園内のモノレールも竣工された。幼いころ、親に連れられて出来立てのモノレールに乗った微かな記憶がある。

 

 それにしても、古本には意外なものが挟まっている。記憶をたどると、戦時中の小型紙幣「十銭札」、大正生まれの方の敗戦直後の履歴書、文春編集者の昭和時代のタクシーチケット…。

 本が読まれた、その時代の空気が漂って来て、タイムカプセルを開けたような気分になる。

 

 大田黒元雄氏の印は「M」。アルファベットの検印に出会ったのは、長谷川如是閑伊波普猷についで3度目だった。湖山社の検印用紙も蛙のデザインで興味深い。