パンテオンの船川未乾

 船川未乾画伯の手がかりが、すこしずつだが、つかめて来た。

 

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 詩誌「PANTHEON」の6号(昭和3年=1928=9月発行)に、画伯の静物画が7点、同8号(同11月)にもカラー版で静物画1点が掲載されていた。6号では、画伯の5ページにわたる長文の寄稿を読むことが出来た。

 

 この詩誌パンテオンは、大変凝った装幀なので、びっくりした。「書物の美」にこだわった長谷川巳之吉(1893-1973)の第一書房の本作りとは、こういうものかと思わせるものだった。

 

 詩人でフランス文学の翻訳者、堀口大学(1892-1981)を中心に、詩人の日夏耿之介西條八十との共同編集の形でスタートしたが、6、8号には西條の影はなく、長谷川自身が代役を務めていた。

 

 店頭販売はせず、予約した愛好者に送付する形式で、「PANTHEON」は、「汎天苑」とも表記されている。

 

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 表紙は、太い棒に手を添えて立つ若きアルルカンと、足元に腹這う犬の線描画。

 ページを繰れば、アールデコ風の木版画の装飾の下に、詩が掲載されている。

 

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 なぜ、画伯の絵が掲載されたのだろう。「船川未乾氏のこと」と題して、6号に、長谷川が書いていた。

 

船川氏は京都の法然院の近くに居住して、専心画筆に親しんで居られます。昨年の初秋、丸善で個人展覧会を催されました。その時私は感嘆の余り一寸した感想を書きましたが、私はその時初めて氏の作品を識ったのであります。以来私は日本の洋画家中、船川氏を代表作家として尊敬して居ります。」

 

 フランスから帰国後に東京・丸善で開催した船川の個展へ長谷川が足を運び、作品に感銘したのだった。一挙に7点の写真版を掲載したのは、長谷川の意向だったことが伺える。

 

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 画伯の文章は、「私は自分の絵を詩人に見て貰ひたい」と題したマニュフェストのような内容だった。

わたしは創作する時に、絵を描かうと考へたことは嘗てなかったし、また今後もないだらうと思ふ」という刺激的な書き出しで始まる。

私は詩を描いて居る。私の詩を組み立てる處の要素は線であり、面であり、色である。私はさうした線や面や色をして私の詩のリズムを作り上げる

 

 詩という言葉にこだわっている。

 

詩とは、音楽、彫刻、文芸等の各科に共通的に存在してゐて、其れ等の作品をして芸術作品たらしめる処の微妙な一つの要素を指して言ふのである。/ラオコーンは世界の名彫刻であるが、あの彫刻が貴いといふのは、ラオコーン其れ自身ではなくて、あの作品の中に封じ込められた詩が貴いと言ふのである

 

 画伯は、フランス画家アンドレ・ロートに師事し、キュビズムの考えを身に着けて帰ったようだ。創作の方法論としてキュビズムを念頭に置いているようだ。

 

私は近代の最も新らしく作り出された科学的な研究に依る線と、面と、色彩とを駆使して、そして詩の第一義に押し逼って行かうとして居るのだ。/キュービズムが作り出した要素の科学的研究は、新しい芸術の基調をなして来て居る。劇はこの研究に依って更生した。舞踊はこの研究の助けを借りて、最も効果あるものとなった。彫刻や絵画が其れに依って影響された事はいふまでもない。

 

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 私にはよく呑み込めないが、キュービズムといえば、1907年ごろからピカソ、ブラックが追求し、広めた。単一視点の遠近法を捨てて、複数の視点を得ることで、形というものを解体し、抽象化、単純化への道を開いて行ったといった風に理解している。

 

 画伯は、写実から解き放たれ、線、面、色彩による画面構成の作業を「詩作」として取り組んでいる、と言っているように聞こえる。

 

自分の絵を詩人に見て貰ひ度いと思って居る。其れは私の絵は、詩以外の鍵を以ては、決して開く事の出来ぬ扉なのであるから」。

 

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 掲載された静物画には、ブラックを思わせる作品もある。1926年から1928年にかけてのもので、背景のある写生風のものから、しだいに画面構成を意識した作品に変わって行き、1928年の作品には、画伯らしいオリジナリティを私は感じた。

 

 詩誌パンテオンは、1年の短い命だった。10号で幕を閉じてしまったのだ。長谷川は、この後も、船川画伯を他の刊行物で起用したのだろうか。

 創作を深めている際中だった画伯は、2年後に病没する。28年以降の作品を探して見てみたいと思った。