ワルナスビから長之助草

 毒の実がなるナス科の外来種に、きっぱりと「ワルナスビ」と命名した日本の植物学の父、牧野富太郎は、偉人だが癖の強い人物として伝えられる。

 

 神田神保町のA書房の「100円本」で見つけた雑誌「本草」8号(昭和8年、春陽堂)に、牧野の文章が2本掲載されていたので、どんな風なのか確かめてみた。

 

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 巻頭の「アブラギクと其語原」は、油に漬けて薬用に用いた植物アブラギクに関するものだった。知識を披瀝し、世間の誤りを正そうという趣旨だった。

 

 まず、やり玉に挙がったのが、前年に出版された評判の辞典「大言海」の「アブラギク」の項。大槻文彦博士が、花の語源を「黄色ナルニツキテノ名ニモアルカ」(黄色なので油の名が付いたか)と推論していたのを、ターゲットとした。

 

「流石の碩学大槻先生も此アブラギクの語原に就てはタヂタヂの体で其れは実に不思議千万に感ずる、なぜならば吾々如き後輩の木葉武者でさへ之れが事実を知ってゐるのに此大先輩の御大将が一向其れに気が付かれないとは何んとマーどうした事乎」

 

 牧野によれば、アブラギクは寛政年間の「長崎聞見録」に出ている。「崎陽(長崎)の俗野菊」いわれ、油に浸して薬用にしたという。牧野自身、長崎でこの野菊を確認し、今では油に浸す代わり、乾燥させて「菊枕」にしている事実を報告している。

 

 「何んとマーどうした事乎」と、大袈裟に「御大将」の誤りを指摘する「木葉武者(こっぱむしゃ)」の荒くれぶりが伺える。

 

 掲載されたもう一つの文章は、読者の質問に答える欄。

 「問 一読者  彼の高山植物の一である長之助草は、実は木本植物であるから、それをチャウノスケサウと云っては良くないと誰かの登山案内の書物で見たかのやうに思ふがこの名はそんなに悪るいかご意見を承はりたい」

 

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 牧野は、長之助草は木本植物に違いないが、地に伏した小さな姿は如何にも草らしく見えるとして、「一二のイチガイな人を除くの外は、誰れも之れに異論を唱へた人はなく、長之助草と云って皆うなづいてそれで通って居るのである。世間の人は皆さばけて居て、長之助草の名をけなしつけるやうな融通の利かぬ野暮テンはあまり居ない」とケンカ腰の回答ぶりである。

 

草だ木だとイチガイにおっしゃる植物学者の御方へ御尋ねするが、もし長之助は木本だからサウ(草)と云って悪いと言ふなら、唇形科のミカヘリサウとイブキジヤカウサウとはどうでせう」と、草の名が付いていて、草と見るには大きすぎる植物をあげて反駁している。

 

 というのも、長之助草と命名したのが牧野自身だった。「長之助草の名は此珍植物を始めて我日本で発見して採集した、須川長之助氏の功績を忘れない為に、先に私が人情味を加へて発表した記念名であり」、その後に付けられた「大した深い意味をも含まないミヤマグルマの名を殊更に用ゐ、些細な点を言ひたてこだてして、人情を没却して居るやうなやり方は一向に穏当でなく、学者としてそんな行動は執りたくないネ。

 

 ミヤマグルマと命名して、長之助草に対抗している植物学者たちが当時いたようで、それを牽制、批判する「回答文」なのだった。

 

 チョウノスケこと、須川長之助は幕末の1842年生まれ。岩手県紫波町から函館へ出て、来日していたドイツ系ロシア人植物学者マキシモヴィッチと出会った。掃除、風呂番の仕事ぶりが認められ、同行して日本各地で植物採集。マキシモヴィッチ帰国後も採集を続けて資料をロシアに送った。長之助草は、立山で見つけたものだった。

 マキシモヴィッチは、彼の功績を認め、ミヤマエンレイソウに長之助の名を献名していた。(Trillium tschonoskiiaxim)。若いころ牧野は、この世界的な植物学者マキシモヴィッチに、採集標本を送り、新種と認められて、マルバマンネングサにSedum makinoi Maximという献名を受けていた。

 こんな献名の経緯と習慣があった上での、長之助草なのだった。いい話なのだが、それを「私が人情味を加へて」と臆面もなく言ってしまう処が、牧野富太郎の性格なのだろうか。

 

「ワルナスビ」は、牧野富太郎ならではの、直截的な命名なのだと納得した。