南瓜のことを調べていたとき、レシピで「かぼちゃもち」を見つけ、自分で作ってみた。レンジで温めた南瓜をつぶし、片栗粉を混ぜて練り、分けて焼くだけだ。食べると予想以上に満腹感があった。
そんな折、三好達治の詩集「朝菜集」で、南瓜の花が出てくる「黎明」という詩を見つけた。三好は、黄色の南瓜の花を「ランプ」に例えていた。
「二つ四つ 砂上に咲いた南瓜の花
これらのランプを消し忘れて 夜はどこへいつたか
川の向うへ 夜は貨物列車とともに
トンネルにかくれてしまつた」(黎明)
「夜」を擬人化した詩に、南瓜の花を登場させ、明け方に咲く黄花を、夜が消し忘れたランプだというのだ。
実際、南瓜の花は、6、7月の明け方5時ごろ開花し、10時には萎んでしまう早朝の花なのだった。ほの暗い未明に黄の花を咲かせる南瓜が、消え残ったランプの印象をあたえても不思議はないのだった。
「砂上に咲いた南瓜の花」という箇所にひっかかった、砂上で南瓜が生育するものかと。JA札幌のホームページに、「大浜みやこ」という砂地で育てた自慢の南瓜が紹介されていた。水はけがよく、一日の寒暖差が大きい砂地の特性を生かすと、粉質、糖度が優れた南瓜が出来るのだという。詩の中の、痩せた砂上の南瓜もまた、実れば糖度の優れた作物になるのだ、と思った。
「二つ四つ」と表現された南瓜の花の数は、雄花、雌花があるため、二つ三つでなく、あえて「対」となる偶数で、詩人は花の数を表現したようだ。残念ながら、雄花が先駆けて咲きだす、実際の生態とは違っている。
言葉択び、音韻の配慮のある他の詩作とは違うが、それでも詩人は、花をよく観察していると思った。
「朝菜集」(昭和21年、青磁社)には、ヒマワリの花を描いた「日まわり」も収録されていた。
「日まわり 日まわり
その花瓣の海
その蕊(しべ)の陸(をか)
若かりし日の 夢の總計」(日まわり)
たった、これだけの詩だが、私は詩人が太陽の花ヒマワリに、「海」と「陸」を発見していることに驚いた。(「夢の総計」は分かりづらいが、海と陸に対する詩人の若き日の夢を、全部持ち合わせている花への賛歌と解釈した)
花弁を、海の波に見立て、茶の丸い蕊を、花弁の海に囲まれた陸地と見る。
詩を愛好する人たちは、とうに読んで知っていたのだろうが、ひまわりを見て太陽しか思い浮かばない私には、今更の驚きだった。
単なるひまわりのことに過ぎないが、詩人の感性を若いうちに理解できていたら、もっと豊かな時を過ごせたかもしれない、と来し方を振り返って想った。