コロナ自粛と虚子のコレラ句

 新型コロナの蔓延もあって、夏の季語として俳句で扱われていた「コレラ」の句も、見直されているようだ。

 神保町のA書房の100円本で見つけた昭和3年「虚子句集」には、「寝冷」と「冷奴」に挟まれて「コレラ」の季語が置かれ、8句が掲載されていた。

 

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 コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな

 

 紫陽花にはやるともなきコレラかな

 

 コレラの家を出し人こちに来りけり

 

 松原やコレラを焼きに船の人

 

 豊作の枇杷の価やコレラ

 

 コレラ船いつ迄沖にかかり居る

 

 護園派の二人死にたるコレラかな

 

 村々を流行り過ぎたるコレラかな

 

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 昭和3年、「花鳥諷詠」の立場を宣言した高浜虚子が、コレラに対しても、目を背けずに、しっかりと「写生」していたのに驚いた。

 

 日本でのコレラの大流行は大正9年で終焉したが、明治時代には15,18,19,23,24,28,35年と、周期的に大流行したという。明治15年は死者3万人を超え、18-19年の両年には合計12万人が亡くなった。

 死者が減って来た明治35年は、9千人。ちょうど、2020-21年の新型コロナウイルスの死者の合計数と同じ位。恐ろしい経口感染症だ。

 

 コレラの死者は焼かれることが法律で定められた。「松原やコレラを焼きに船の人」は、海岸線の砂浜で焼き埋葬された光景なのだろう。

 船の乗客、船員に感染者が出ると、船は40日間入港できなかった。「コレラ船いつ迄沖にかかり居る」の句は、沖に停泊するコレラ船を思っている。

 

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 書棚に「ホトトギス雑詠選集(夏の部)」(改造社、昭和15年)があるので、「コレラ」の季語を探すと、門司に住む久保晴の2句だけ掲載されていた。俳句誌「ホトトギス」に明治41年から昭和12年まで掲載された句から、高浜虚子が選び出したものだ。

 

 コレラ船ひとかげをみることもなし

 門司を去るコレラの船のなが汽笛

 

 昭和6年、門司港沖のコレラ船を描いたものだった。昭和に入っても、コレラの小さな流行があった事がわかる。

 

 虚子の句に戻ると、私には解釈できない作品がある。

「豊作の枇杷の価やコレラ年」の、枇杷コレラの関係が分からない。枇杷コレラ予防にいいとか、その逆で感染源だとか風評が流れたのだろうか。

「護園派の二人死にたるコレラかな」の護園派に関しても無知である。

 

 今回のコロナで、コレラの句が見直されていて、私は以下の句を知った。

 

 コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ昼餉かな(杉田久女)

 コレラ出て佃祭も終りけり(松本たかし)

 月明や沖にかかれるコレラ船(日野草城)

 

 俳句でもって、コレラと、社会を捉えようとしているのだった。