堀辰雄が妻と捺した一琴一硯の印

 甲鳥書林の著者検印について、新たに分かったことがある。

 昭和16年、甲鳥書林から「晩夏」を上梓した堀辰雄が、検印についての文章を書いていたのだ。

「我思古人(旧題・一琴一硯の品)」という随筆で、青空文庫で読んだ。

 

 「『晩夏』が校了になり、ほっと一息ついてゐたら、甲鳥書林から何だか部厚い小包が届いた。何かと思ったら、一束の検印紙だった

 

 ひどく凝った検印紙なので、これまで使っていた「辰雄」の印では、「すこし検印紙の方がかはいさうな気がする」と、堀は夫人の亡父の持っていた明清の頃の由緒ある印を思い出して取り寄せた。

 

 十幾顆あるものの中から結局、「我思古人」の印についで、堀が気に入っていた「一琴一硯之楽」という「可愛らしい小さな印」を検印に用いることにした。 

 清の嘉慶の頃の文人、陳曼生(1768-1822)が刻したものだった。側款に詩が細字で刻まれていた。「携琴登山滌研曲水(琴を携えて山に登り、うねり流れる川に硯をすすぐ)」といった詩句が含まれる。当時の文人の、理想の暮らしが描かれている。

私は晩夏の一日の大半を、妻と一緒に、この印を捺すことに過ごした。いつもなら味も素気もなく捺してしまふことが多いが、こんどの本は一つ一つ丁寧に『琴』だとか『硯』だとかいふ文字なんかに気を配りながら、捺したりしたせゐか、なんだか検印なんといふ俗中の俗なる為事を続けながら、しかもいささか俗気を離れた半日を過ごしたやうな気がした」と書いている。

 

   

 甲鳥書林から届いた「凝った検印紙」が、著者への挑戦状のようになって、やたらな印を捺せないという気持ちにさせていたことが伝わる。検印紙のデザインが、作家の沽券にかかわる検印択びへと行動を駆り立てていたのだった。

 

 この文章は、昭和16年11月、甲鳥書林の「甲鳥第八輯」(出版ニュースのようなものか)に掲載された。翌17年に「夏目漱石」を出版する森田草平も、読んでいた可能性が高い。

 

 翌年、校了を終えた森田の元に、出版社から「凝った検印紙」が届くと、森田はすでに用意して置いた「凝った印章」で応えたのではなかったか。

 これが、「猫の印」の経緯だとすると、先に書いた草平と出版社の中市・矢倉の共同のアイデアというのは、うがちすぎた間違いであることになる。

 

 小さな検印紙でも、デザイン次第で、大きな力を持つことを思い知らされる。