小説家のころの犬養健

 大正14年「改造」7月号には、谷崎潤一郎佐藤春夫のなまなましい小説に挟まれて、犬養健(いぬかい・たける)の「兼介とその通信」という小品が掲載されていた。

 英語辞書編集の孤独な作業に疲れ切った教師の主人公が、妻と5歳の長女とともに、信州の避暑地の別荘を借りてひと夏を過ごす。二女を早産で亡くし憔悴の夫妻が、知り合った隣りの別荘の溌溂とした3きょうだいとの交流を通して、忘れていた希望や元気な日常を取り戻してゆく様子をたんたんと描いている。

 

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 犬養健が、白樺派の作家だったころの作品だった。昭和4年(1929)に「南京六月祭」を上梓した後、政治の世界に身を投じる。

 立憲政友会総裁の、父親犬養毅の下で、政友会の議員となった。

 昭和6年(1931)毅が首相就任すると、「総理秘書官」。

 翌7年(1932)首相は青年将校らに襲撃されて死亡(5.15事件)。

  

 私が犬養健に関心を持ったのは、「揚子江は今も流れている」(中央公論、1960年)という著作だった。

 1937年、近衛文麿第2次政権で、「内閣逓信参与官」となった衆院議員の健は、盧溝橋事件勃発後の、陸軍統制派の中国南下策、戦線拡大を抑えるため、和平への最後のチャンスにかけ、陸軍今井武夫・影佐禎昭らに協力した。同書では、汪兆銘ハノイ脱出行など、当時の生々しい時代の証言が披瀝されている。

 

 1950年11月、NYのセントラルパーク南通りのサン・モリッツという小ホテルで、犬養が朝食を取っているとき、中国国民政府のアジア局長だった康紹武に声を掛けられる場面から話は始まる。

「新聞を読みながら食卓に着いていると、「ケンちゃん」こう声をかけて、私の両肩をうしろから押さえる者がある。私は振り返って驚いた。「紹武!」と私は思わず叫び、その男を抱きしめた」。

 前年、大陸に共産党政権が樹立され、米国で暮らすことになった国民政府の元外交官の康。敗戦後公職追放となった健は、48年に追放解除となり50年に渡米したのだった。

 歴史から消えかけている1939、40年の彼らの行動が、NYの2人の再会から回想される。

 

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 戦後教育では、汪兆銘政権は日本の傀儡政権として一言で片付けられている。その歴史の中で翻弄されながら、汗を流したのが犬養だった。

 

 犬養は、日本軍の中国撤退を条件に示しながら、和平交渉の受け入れを示す唯一の勢力、国民党分派、汪兆銘の側近との交渉に動いた。

 汪は、抗日へ舵を切った蒋介石国民党からハノイの宿舎で殺されかかり、犬養も、戦線拡大を進める陸軍統制派に命を狙われる。大陸での彼らの行動が、スパイ小説のようになまなましく描かれている。

 しかしながら犬養らの見通しは甘かった。頼みにしていた近衛文麿首相が、中国との戦線拡大方針を表明し、和平工作に動いていた犬養らを簡単に切り捨ててしまったのだった。

 文麿には、多くの人が、絶大な権力を持つ陸軍統制派と対決できる最後の砦として思いを託したが、近衛は、重大な歴史局面で、戦わずして、統制派の全くの言いなりになってしまった。

 

 東条英機に反旗を翻し、中国戦線の「不拡大方針」を表明し、近衛首相に期待した参謀本部石原莞爾も同じ道筋をたどった。蒋介石との和平交渉を提案した石原の呼びかけを無視し、近衛は統制派の戦線拡大の道を選ぶ。左遷また左遷の運命をたどり、最後は「東条暗殺計画」に至った石原について、犬養は同情しつつ、近衛の性格を知らなかった石原の失敗だった、と書いている。

 

 作家から政治家に転身後、父の暗殺に遭遇、孫文と親しかった父の遺志をついで中国政治家との橋渡しを目指した。学習院仲間の近衛文麿へ協力し、ゾルゲ事件ではスパイ活動を疑われ一時拘束された。中国での命がけの活動も、結局実を結ぶものがなかった。戦後はまた、政治家として不名誉な落とし穴に嵌ってしまう。

 

「兼介とその通信」で描かれた避暑地のひとコマは、辞書編集者の主人公の姿を通して描かれた、作者のつかの間の平穏だったように思える。

 彼のやりとげたかった政治的な行動は、戦後人気評論家として活躍した長女の犬養道子が、「ある歴史の娘」など多数の本で描き足しているが、今どれだけの若い人に読まれているのだろうか。

 

 繊細な心理描写が特徴だった健の小説の文学的側面は、孫にあたる女優の安藤サクラの演技や、安藤桃子が監督した映画に、あるいは受け継がれているのかもしれない、と思う。