「化けさうな傘」を巡って

 芭蕉の元禄ごろの俳句と違って、蕪村に代表される江戸の中ごろの俳句は、同時期に生まれた雑俳、川柳なども併せて見てみないと全体像がつかめないのかもしれない。

 

 そう思ったのは、昭和2年の雑誌「江戸時代文化」を読んでいた時。雑誌編集で出来た空白の埋め草に、俳句、川柳などが掲載されていた。

 

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 与謝蕪村の「化けさうな傘貸す寺の時雨かな

  並んで次の雑俳。

化けさうなのでよけりゃ貸さうと傘を出し」(宝暦句合)。

 

 蕪村の句をもじって、江戸の雑俳の句合に出されたものだろう。蕪村が、寺の破れ傘を、妖怪一本足や唐笠小僧のような、化けそうな傘と句にしたのに反応して、江戸の町の破れた傘の貸し借りを、「化けさうなのでよけりゃ」としゃれている。しゃれのめす雑俳を作りだした連中が、俳諧の新作を注目して反応していたように思える。

 

 「江戸時代文化」の余白には、また炭太祇の「盗人に鐘つく寺や冬木立」が掲載され、横には、柳多留第3編の川柳が2つ掲載してある。

 

 「早鐘に和尚を見れば猿轡」

 「盗人に法螺貝を吹く在郷守

 

  盗人を知らせるため、和尚が早鐘をついて周辺の住民に知らせている、という太祇の句を受けて、

≪時ならぬ早鐘に、鐘つき堂を見やれば、和尚が猿轡をされている≫と笑わせ、

≪村を守る者が、盗人を知らせるため、山伏修行の法螺貝を吹いているよ≫と、田舎の情景に変えている。(在郷守は「ざいごもり」と発音するのだろう)

 

 正岡子規「俳句上の京と江戸」を青空文庫で読んでみた。江戸時代の俳句の「第五(隆盛期)は天明時代です。これも明和から寛政頃までを含んでおるのですが、この時代は元禄時代と共に俳句の最隆盛を極めた時ですから、両都共に、名人も沢山出る、名句も沢山出る、書籍も沢山出る、という訳で、その勢は非常な者でありました。けれども勝はいうまでもなく京にあります。何しろ蕪村という怪物が京に出たのですから」「その怪力にかなう者は江戸にも地方にも固よりあるはずがない。その上にまだ太祇という名人も京にいたのですが、この者の力も非常な者であって、蕪村でもうっかりすると土俵から押し出されそうなのですから、江戸にも何処にも、蕪村の外に敵はありはしない」「この二人があるさえ京に偏重して居るのに、まだこの外に几董も京にいた、これもやはり蕪村、太祇を除いたら敵はないのです。まだその下に闌更というふんどしかつぎがおります。この男も江戸にいたら大関といって関脇と下らぬのでありますが、それが京ではふんどしかつぎに相当するのですから、その優勢な事は思いやられるです。そうして江戸の方はというと、蓼太、白雄らが門戸を張ってやって居るので、雑兵こそ非常な人数であるけれど、到底京に敵するなどは思いもよらぬ有様である

 

 当時の俳諧が、西高東低だという子規の解釈は、なるほどと思う。

 そうしてみると、京から出てくる俳句の名作に、悔しがってパロディで江戸の連中が反応、対抗したということなのか。

 それとも、この頃には、江戸では、俗を離れる「蕉風回帰」の俳句より、江戸の町の風俗、人事、パロディを句にすることを面白がり、才能ある人材も、雑俳、川柳に流れていったということなのか。 

 俳句を俳句だけで見ては、見えないことがあるのかもしれない。