中華商場とローランド・ヒル記念切手

 若かった頃、細と台湾旅行に行った。台北の「下町」を歩き、食堂に入ったり、物を買ったりした。散歩していると「中華商場」という建物に行き当たり、そこの2階食堂で「臭豆腐」を食べるかどうか、逡巡したりしたのをかすかに覚えている。感じのよい台湾青年と、筆談でやり取りしたが、ここまで来る観光客が少なかったのだろう、「香港から来たのか」と質問されたのだけは、よく覚えている。
 台湾への旅行はさっぱり途切れていたので、呉明益の小説「歩道橋の魔術師」(天野健太郎訳、15年、白水社)を読んだとき、始めて中華商場がもう取り壊されたのを知った。
 「歩道橋の魔術師」には、中華商場に住み、育った台湾の子どもたちの少年時代が、不思議な体験と共に、描かれていたのだ。久しぶりに、小説のとりこになって、熱心に読んだ。
 
 少年たちの思い出が書かれていたのは、ちょうど僕たちが中華商場を歩いたころだった。呉は、短編でその年を、郵便の父ローランド・ヒルの逝去100年の記念切手が発売された年、と記憶していると書いている。日本でローランド・ヒルのことを知っているのは、郵便事情に詳しい人だけだろう。だいいち、台湾と違って、彼の逝去100年の記念切手は日本では発行されていない。ヒルは1795-1879の生涯。逝去100年は1979年にあたる。台湾の人には、ローランド・ヒルが身近な存在なのかと、小説を読んで興味を持った。

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 神保町の古本屋さんが、段ボールにとっておいてくれた古雑誌に大正14年の「改造7月号」があり、ローランド・ヒルのことが出てきたので、びっくりした。
 河合栄治郎「在欧通信(三)」。英国バーミンガムでの滞在記のなかだった。
「公会堂の向ふ側に中央郵便局があり、其の中にサー・ローランド・ヒルの石像がある。氏の父君がバーミングハムの学校の先生をして居た関係から、氏は此に紀念されたのださうである」
ローランド・ヒルは、郵便制度を改革して、今日の郵税の仕組みを作った。
ヒルの改革前は、「郵税が今日のやうに均一でもなければ、又廉価でもなかった」
 と、郵便制度の父となったいきさつを続けている。
ヒルは、雑誌で詩人コールリッヂの記事を読んだ。
 
「田舎を散歩していた時に、主婦と郵便配達とがなにやら争って居る、窺ってみると手紙代が払ってないから払へと云うと主婦が其の手紙は宛名は自分になっているが、裏が白紙で何も書いてないから、払ふ必要がないと云うのである。此の押問答を聞いて、コールリッヂが主婦に代わって、郵便代を支払って、悶着は落着したが、配達人の立ち去った後で、主婦は詩人に向って、あなたは余計なことをなされた、自分はいつもああした手紙は払わずに返すのです。此頃の様に郵便代が高くては、我々貧民にはとても払へないから、遠方の弟と、約束して、裏が白紙の時には無事と云うことにして、代を払はず安否を報じ合ってゐるのですと云ったさうだ」
 ヒルは、記事を読んで改革を決意し、「遂に現在世界各国で採用してゐるやうな、廉価なそしてどんな遠方でも均一の郵税で往ける制度が実現されたのである。(中略)社会制度の改革と云ふものは実に面白いとしたことから始まるものじゃないか」
 
 ワーズワースの友人だったコールリッヂの投稿がきっかけで、全国統一料金の郵便制度が出来たというのも面白い話だと思った。
 
 台湾の呉明益の著作はその後も、楽しみに読んでいたのだが、昨年末、訳者で働き盛りの翻訳家・天野健太郎さんの訃報に接して言葉が出なかった。