梅子先生のお金のやりくり

 また事務所近所の神保町の古本屋さんを通りかかると、店外の安売り本に、「人物叢書91・津田梅子」(山崎孝子著、吉川弘文館)が置いてあった。手にとって店内に入ると、若いご主人は「タイムリーな本があったので、外に出しておきました」。私が、さっそく引っかかった客だったかー。
 
 新5000円札の肖像に決定した梅子なので、お金にまつわる部分を拾い読みした。
1900年、梅子は、日本で女子英学塾の開校を決意して、東京府知事に設立願を提出したが、中に経営の収支計画が出ていた
 
 
収入
 
支出
収支
授業料 30人分
720円
教員給料
720円
 
寮生賄料 15人分
1080円
寮生賄料
1080円
 
寮費   15人分
 225円
雑費
 225円
 
 
 
 
 
 
2015円
 
2015円
 
随分大雑把な計画からすべてがスタートしたことがわかる。
すぐ設立認可が出たが、案の定収支計画は破綻する。
当初予定の麹町区下二番町の家は手狭なので、近所の麹町一番町に借家するはめに。家賃は月50円。年で600円。後援者から500円借り受けたが、それでも1年100円不足する計算。
さらに開校時の生徒数は10人と計画の30人の三分の一。年末に24人に増えたが、翌年1月には18人に減ったという。
 
1901年、生徒が目標の30人に達すると、今度はもっと広い建物が必要になった。米国の友人たちが組織したフィラデルフィア委員会から寄付金4000円の送金があったため、麹町区元園町の醍醐旧邸を買ったが、修繕費を含め3000円がかかったという。
1902年には、生徒が50人、教師も15人まで膨れ、麹町区五番町の女学校跡地や隣接地を購入する。梅子や外国人教師2名は無給でがんばったが、借金1万7000円を抱えることになったそうだ。金の工面で苦労しながら、しかし梅子は事業拡大に向けて、果敢に設備投資を進めたことが分かる。
 
当時の貨幣価値は、白米の価格で1900年と2019年を対比すると、約4000倍。借金1万7000円は、6800万円になるが、実際ははるかに高額ではないか。
 
草創期の梅子先生を見ただけで、お札のモデルになるには、ぴたりかもしれないと思う。こんな偉人に対して、財務省は、裏焼き疑惑だけは、はっきりさせないとなるまい。

イメージ 1
 「人物叢書 津田梅子」と扉写真の1901年当時の梅子