丹波与作が気になって

 与作といえば、北島三郎のヒット曲で、トントントンと木を切る与作を思いうかべてしまうが、武士になった丹波の馬方、丹波与作は、江戸時代「有名キャラ」だった。
 
 鈴鹿馬子唄にも、丹波与作が登場している。
 東海道53次は、44石薬師、45庄野、46亀山、47関、48坂下と、三重県鈴鹿市亀山市を通っていた。
 与作は、47の関宿の客引き女、小万との恋愛沙汰が歌われている。
  
 「与作思えば 照る日も曇る 関の小万の涙雨
 この時の与作は、武士になった後らしい。モテ男だったようだ。
 
 小万もわけありで、父は九州・久留米藩の剣道指南役だったが殺され、仇討ちの旅に出た身重の母が、関宿の旅籠で生んだのが、この小万だった。
 小万は旅籠で育てられ、亀山まで通って武芸を身につけ、やがて亀山城大手前の辻で親の敵討ちを果たす。小万は馬子姿になって、敵を待ち伏せたのだという。
 
 この話は、近松門左衛門が関心を持ち、「丹波与作待夜小室節」の芝居を拵えた。
 丹波で武士をしていた与作は、藩から追放される。妻は丹波で幼い姫の乳母となったが、子供の三吉は捨てられ馬子になった。一方、与作は関の宿の小万と恋人になるが、博打に溺れて行方知らず。新たな金策で関の宿に戻った与作は、丹波の姫が江戸への道中で、関宿にいるのを知る。姫の一行に子供の馬子がいるのを知って、泥棒をけしかける。その馬子こそ、自分の子供の三吉だった。
 事情を知った与作は自分の罪深さに小万と心中を決意するが、姫が三吉のけなげな姿に心動かされ、罪を許し、与作を元の侍に取り立てるのだった。
 
イメージ 1丹波のお城
 

 なんという、与作像。金と女にだらしなく責任感ゼロ。捨てた子供のおかげで、元の武士に戻る幸運な男。

 
 近松の歌舞伎になる前の、丹波の与作像はどうだったのか。なぜ馬方が侍になり、関の小万と恋仲になったのか。丹波馬子唄、鈴鹿馬子唄は江戸時代の初めには作られたらしい。馬子による街道のネットワークが出来たころなのだろう。
 侍に取り立てられ、憧れの女性と恋仲になる。与作は、馬方たちが作り上げた夢であり、ヒーロー像だったのではないか。「丹波」馬方と「鈴鹿」馬方の夢を合体し、近松はメジャーに仕立てあげた。
 
 新年早々、妙なことで丹波与作を、むきになって調べたが、すでに誰かが精緻な研究をしているのかもしれない。