工藤好美さんと山頭火

 分け入っても分け入っても青い山
 
 笠にとんぼをとまらせてあるく
 
 知人が放浪の俳人種田山頭火を題材に短編映画を撮ったので、上映会に行ってきた。知人の来し方と山頭火の放浪人生を重ねていた。
 山頭火については、自分なりにずっと気になっていたことがあったので、これを機に、少し調べてみた。
 前にも触れた1930、40年代の台湾で活躍した「湾生」の画家立石鉄臣さんの夫人の家族と、山頭火のつながりがあったことだ。
 夫人は、立石画伯と知り合う前から一家で台北に暮らしていた。理由は、長兄が台北帝大で教鞭をとることになったからだ。長兄は工藤好美さんという。19世紀の英文学研究をする颯爽たる学者、翻訳家で、1928年に助教授として赴任、一旦30年から31年まで英オックスフォード大学に留学した後、新妻を伴って台湾に戻り、教授となって親、妹たちと暮らしていた。
 大分県佐伯市で生まれた好美さんは、学生生活は、熊本の五高で送った。このとき、繁華街の下通りで古本屋「雅楽多書房」を開いていた山頭火と親しくなったようだ。
 古本屋を開店したのは1916年。山頭火は33歳。好美さんは18歳のときだった。
 山口県の資産家に生まれた山頭火は、子供の頃、母の自殺を目の当たりにして心の傷を負っていたが、自由律俳句に打ち込み荻原井泉水の門下で活躍していた。実家が破産したのを機に、妻子とともに熊本に移住し、出直しを図ろうとした。が、さらに弟の自殺など追い討ちをかける出来事があり、酒に溺れる日が続き、1919年妻子を残して単身上京してしまった。
 
 気になっているのは、好美さんも妹の千代さんとともに、この時期に上京。好美さんは、山頭火が学んだ早稲田大学を選んで入学したことだった。一緒に上京した千代とともに、東京でも山頭火と交流があったのではないか。
 山頭火は夫人と離縁するが、23年に関東大震災に遭遇して、熊本に戻り、報恩禅寺の寺男になる。一方、好美さんは、千葉・佐倉高校の先生として赴任する。
 翌24年に山頭火は、北熊本の静かな味取観音堂で得度し、堂守となる。僧侶になったのだ。
 
 さらに驚いたのは、好美さんは、妹の千代さんが若くして亡くなった時、山頭火が大分・佐伯の実家での葬儀に参列したと、山頭火の作品にふれた文章で、書いていることだ。好美さんが山頭火に頼むと、山頭火は千代さんのために、お経を読んだと記している。時期がはっきりしないが、24年に僧侶となった後のことだと想像できる。
 千代さんをよほど愛していた好美さんは、長女が生まれたとき、千代の名を偲んで「千代子」と命名したが、山頭火もまた千代さんを愛していたのだろう。経を読む丸い眼鏡の山頭火を想像しながら、3人の間に、我々のうかがい知れない深い精神的なつながりがあったのではないか、と思わずにはいられない。25年、山頭火は雲水姿で行乞に出てしまう。放浪の始まりー。
 
 好美さんは後年、山頭火の俳句を三行詩として捉え、自由律だけども、3行詩という形で五七五の伝統に則っていたと解釈している。その伝統と格闘しながら、創作でも放浪の旅に出たのだと書いている。

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 好美さんが、夫人の姉、英文学者淀川郁子とともに翻訳したジョージ・エリオットの長編「ミドルマーチ」を読み出しながら、山頭火の世界は、俳句の世界だけにとどまらない抒情詩として世界性を持っているのではないか、と思った。
 
 濁れる水の流れつつ澄む