正面左右には風神・雷神。これはありかな、と思ったが、裏面右に閻魔大王、左には婆が、爺とともに座っていた。
左ひざを立てたお婆は、隣の爺より大きく、主役は爺でなく婆であることが知れた。説明板もなく、帰宅して調べると、三途の川(葬頭河)の畔で、亡者の衣をはぐ恐るべきお婆であった。
衣を奪う婆だから、「奪衣婆(だつえば)」と呼ばれているのだった。
それによると、亡者は来世に向うのに、三途の川を渡らなければならない。
川渡りには3種の方法がある。
①深く流れの速い「江深淵」を渡る
②膝下くらいの浅瀬「山水瀬」を渡る
③橋があるので歩いて渡る(「橋渡」)。
西洋のような舟で渡るというのがない。
③がいちばんいい。②もまあいいか。①はいやだ。生前の罪の重さで、善人度の高い者が③、まあまあの人が②、善人度あるかないか、或いはゼロが①ということになるらしい。
奪衣婆は、亡者の衣を剥ぎ取って、爺の「懸衣翁」に手渡し、大樹に懸けさせる。枝のしなり具合で生前の罪の重さを測定。①-③のコースが決まるという内容だ。
というわけで、隣に座っているのは、この懸衣翁らしい。
山門に、閻魔大王、奪衣婆、懸衣翁と揃って、観音巡礼者の罪をチェックしているかのようだ。
奪衣婆は、江戸時代の末期、嘉永2年(1849)ごろ流行し江戸で脚光を浴びたことがあるらしい。黒船来航の数年前。日本橋の翁稲荷、両国回向院の於竹如来とともに、内藤新宿・正受院の奪衣婆が突然流行りだし、参詣人が押し寄せたのだという。「流行神」というらしい。
奪衣婆も、衣を剥ぐ役回りとは全く違って、咳止めや子供の虫封じ(疳の虫封じ)に、霊験あらたかと信じられた。参詣者は、お礼に綿を持って婆に供えたという。
はたして、笠森観音の婆、爺は江戸の幕末の流行前に作られたものか、その後なのか。今の像の前にも古くから安置されていたのか、いつのころから祀られたのか。こういうことが分かるともっと寺参りも面白くなるのだが、と思う。