時天空のこと、天国のこと

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 すこし前の話だが、1月31日に大相撲・元小結の時天空間垣親方が亡くなった。37歳の早すぎる死への驚きとともに、よほどモンゴルでも人気があったせいなのだろう、モンゴルのオノードル紙のWEB版は、7枚の写真、2本の動画を掲載して報じた。
 
 小結昇進後の横綱朝青龍との一番で、土俵際で後ろに回りこみ、腰にしがみついて送り倒した動画。朝赤龍との6分8秒の大相撲の動画。負けたせいか、途中の水入りの場面で終わらせる気遣いをしていた。若荒雄とのケンカ相撲、日馬富士へのケタグリ大失敗と、足技を多用する激しい技は、モンゴル人好みだったのだと思う。
 
 ハッと思ったのが、記事の見出しだった。「時天空、フチットバートルが天国に旅立った」テンゲリーン オロン=天国、へ旅立つ、という表現をしていた。普通はただ「亡くなった」と表記するのに。よほどの思いがあるのだろうか、と思ったのだ。
 
 多くのモンゴル人は、生命は天から生まれ、亡くなると天に戻るという伝統的な観念を持っている。天に戻ったのだ、フチットバートルも。ましてや、「時天空」という四股名だったのだから。
 
 実は、最近「天国」という言葉でとまどうことが多いのだ。僕は学生時代に、仏教の講義で、金岡秀友先生から「みなさん、天国という表現をよくしますが、天国はキリスト教の観念です。仏教にはありません。輪廻の考え方では、極楽浄土です」と教わった。今でもよく覚えている。
 
 今、日本で「天国のお父さんが見守ってくれたから」という表現が当たり前になっている。初めは、そうか、お父さんはクリスチャンなのかな、と反応したが、一般紙でも堂々と「天国の両親がー」と見出しが登場し、死後の世界は天国と思っていることが分かった。
 
 浄土宗系では、臨終に際して、阿弥陀如来が迎えに来て、向かう先は西方浄土。天ではない。沖縄などの伝統的な死後の世界は、ニライカナイ。海の彼方にある他界だ。天ではない。「草葉のかげから」という表現も、少し前まではよく使われた。身近な空間にあの世があるという観念だろう。
 
 モンゴル紙の逝去の見出しに感心しつつ、日本での天国という言葉への違和感について改めて感じたのだ。