ボブ・ジェームスの演奏で思ったとりとめないこと

 知人を誘って、東京ジャズに出かけた。昼の部は、ボブ・ジェームズの「ピアノとオーケストラのための協奏曲」から始まった。東京フィルと一緒に彼がピアノ演奏した。
 
 2011年9月、被災地大船渡に駆けつけた時の体験をもとに、彼が3楽章にねりあげたものだった。
 第1楽章「Ofunato」(大船渡)
  2楽章「Aftermath」(震災の後)
  3楽章「A New Dawn」(新しい夜明け)
 
 30分弱の、美しい曲だった。声高でなく繊細で、とにかく美しいと思った。震災から4年間、思いを継続して、この創作にこぎつけたのだな、と思った。
 
 公演後、知人とビールを飲んだ。娘さんに誘われて7月スウェーデン、ノルウエーに2週間旅行してきたという。そのころから、中央駅付近には、中東からの避難民が多数集まっていたそうだ。
 
 いま、読んでいる「Cats of Any Color」(94)にスウェーデンが出て来る。1954年、伝説のジャズ歌手ビリー・ホリデイストックホルム公演を行ったときのことだ。
 
 初日、用意されたリムジンバスで、市内見物に出かけるとき、ビリー・ホリデイは、「スラム街へ連れてって頂戴、スラム街が見たい」と言い出した。
 誰かが答えた。「ここにはスラムなんてありませんよ」
「なんですって?」
「ここには、ビバリーヒルズも、ないんです」。
「スラムもビバリーヒルズもないって、このストックホルムのことをいっているの?」
「いいえ、スウェーデンのどの都市も同じです」
 
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 ツアーメンバーだったベースのレッド・ミッチェル(そう、前にも触れたあのベーシスト)が、このビリー・ホリデイのエピソードを伝えている。レッド・ミッチェルはスウェーデンに移住を決めた。ベン・ウェブスターデクスター・ゴードンも北欧に移住した。
 
「今となっては、ビリーもまた北欧への移住を考えてくれたらよかった、と思う。長く生きることができたのに」。
 彼女の才能を惜しんでレッド・ミッチェルは振り返っている。(ビリー・ホリデイは5年後、麻薬、酒の生活から抜けだせずNYで44歳で死んだ)
 
 知人の話からすると、ドイツばかりか、そのスウェーデンにもいま、難民がやってきていることになる。
 
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 先週、スチュワート先生から、シリアなど難民が国外に定住地を探して移動することを、英語で、PEREGRINATEという、と教わった。ハヤブサ PEREGRINから由来する。30万羽を超えるハヤブサたちへ、遠くから思いをはせることしかできない。
 
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 ボブ・ジェームスの心を込めた演奏の後、「ブラボー!」という声をあげる聴衆がいて、つらかった。音楽でも、伝わらないことはあるのだ。