夢二が捉えたテニスプレーヤー佐藤次郎の一コマ

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 錦織圭の英国での戦いが始まった。
 錦織の活躍で、脚光をあびたのが戦前1932年全仏、全英でベスト4になった佐藤次郎だ。
 画家の竹久夢二が、1933年夏、ドイツ・ベルリンで佐藤次郎を取材しているのを偶然知った。
 復刊された「夢二外遊記―竹久夢二遺録」(14年、教育評論社)を息子が送ってくれて、目を通していたら夢二が文章で佐藤を描いていたのに出くわしたのだ。
 早稲田気質を愛した夢二が、早稲田出身のこのテニスプレーヤーについて触れた箇所だ。
 今夏伯林で、クラムを破った佐藤を見たことは愉快であった」と。
 
 クラムとは、ドイツで30年代に君臨したテニスプレーヤー、ゴットフリート・フォン・クラム。183センチの長身で、金髪の「男爵」と呼ばれた。全仏で34、36年と優勝している。その前33年のベルリンでの試合。
 夢二は、佐藤の「その勝ち方が頗る好もしかった」と書いている。「易々と破った」。ストレート勝ちだったのだろうか。
佐藤は、試合の三日前からコートへは出て来るが練習もしないで、ぼやんとベンチに座っていた。試合の日は一時間前、一人の娘が佐藤の居る部屋を訪ねて佐藤の前にちょこなんと座っているのを私は見た。娘は十五六であろうか、手に佐藤の写真を持っている、思うにそれにサインを頼みに来たのであろう
 
およそあつかましい外国の娘が、サインを貰うこと位を言い出しかねているのも不思議であるが」「はや、二十分、佐藤は娘の方を見かえりもせず黙りこくっている。私は佐藤の友人というわけでもなし、彼と話をする気もないのだが、偶然来合せてこの光景に接し、なお更ものを言う気になれないで、娘と佐藤をおいて部屋を出てきた。私はそこで佐藤の精進を会得した気がした。その時から間もなく、晴れのコートで、佐藤はクラムを易々と破った
 
私はこの晴れがましい試合よりも、まことに困った娘を前にして、黙りこくっている佐藤の姿を愉快に思いだす、あの可哀そうな娘はどうしたであろう」と夢二。好きなタイプの少女ではなかったか。
 
 試合前の精神集中の時に、サインを求めてはならないのは、エチケットであろうが、簡単に娘が控室に入れたのも不思議ではある。
 佐藤次郎は、翌年4月、欧州遠征の帰り、婚約発表したばかりなのにマラッカ海峡で投身自殺をし20代で生涯を終えた。
 その5か月後、帰国した夢二も結核のため49歳で逝去した。
  クラムは、その後反ナチ思想とユダヤ男性との同性愛で、ゲシュタポに逮捕されたが1年で釈放され、戦後テニス選手として復活し、67歳まで華やかに生きた。
 サインを貰い損ねた少女は、その後どんな人生を過ごしたのだろう。