品川宿散策の補足

 品川寺に、亀趺があった。
 
イメージ 1
 
 宝篋印塔と彫られた宝塔(ちっとも宝篋印塔の形でないが)を背負っている。
 
イメージ 2
 
 この獣首の亀趺は、18世紀に流行し、儒家の墓や墓碑に造られている。品川寺の近くには、同じ首を持った亀趺の、沢庵和尚顕彰碑が東海寺の大山墓地にある。宝暦3年(1753)の制作。
 品川寺の宝篋印塔は、沢庵和尚の碑に影響を受けて建てられたものだろう。 
 
 江戸時代の亀趺は、水戸光圀が復活させた。元禄5年(1692)光圀は、神戸市の湊川神社の前身廣厳寺に、楠正成の顕彰碑を建てた。その時光圀に命じられて、碑を考えたのが、助さんのモデルとされる佐々宗淳。碑を支えるのに亀趺が用いられた。ただし、亀の首はフツウの亀だった。
 
  楠正成を顕彰したように、儒家であった光圀は、勤皇思想の水戸学の祖であった。一方、沢庵和尚は、寛永年間に幕府と朝廷間で起きた「紫衣事件」に巻き込まれた時、後水尾天皇を守り、抗弁書を幕府に提出し、東北に流罪となった人物。勤皇思想からすると讃えるべき人物だった。沢庵の没後108年に、品川に顕彰碑が建てられた由縁であり、亀趺が用いられたのは、水戸国学の流れをくむものが顕彰したからだろう。
 
  江戸狩野派画家の墓にも、亀趺が用いられ、池上本門寺の同派の画家の墓に残っている。江戸狩野派が、光圀ともつながっているのは、光圀が命じて制作した楠正成の顕彰碑で伺える。 
 碑の表面が、光圀筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」。
 碑の裏面は、江戸狩野派の始祖狩野探幽が描いた楠正成の絵が彫られている。(明の遺臣朱舜水の賛とともに)
  楠正成の碑は、幕末に尊王の志士によって聖地化してゆくが、この品川寺の亀趺も、水戸国学の興隆が背景にあるのだろう。まあ、もとをたどれば、助さんに行きつくと思って、品川寺の亀趺を眺めるのも一興だろう。