品川寺に、亀趺があった。
宝篋印塔と彫られた宝塔(ちっとも宝篋印塔の形でないが)を背負っている。
品川寺の宝篋印塔は、沢庵和尚の碑に影響を受けて建てられたものだろう。
江戸時代の亀趺は、水戸光圀が復活させた。元禄5年(1692)光圀は、神戸市の湊川神社の前身廣厳寺に、楠正成の顕彰碑を建てた。その時光圀に命じられて、碑を考えたのが、助さんのモデルとされる佐々宗淳。碑を支えるのに亀趺が用いられた。ただし、亀の首はフツウの亀だった。
楠正成を顕彰したように、儒家であった光圀は、勤皇思想の水戸学の祖であった。一方、沢庵和尚は、寛永年間に幕府と朝廷間で起きた「紫衣事件」に巻き込まれた時、後水尾天皇を守り、抗弁書を幕府に提出し、東北に流罪となった人物。勤皇思想からすると讃えるべき人物だった。沢庵の没後108年に、品川に顕彰碑が建てられた由縁であり、亀趺が用いられたのは、水戸国学の流れをくむものが顕彰したからだろう。
碑の表面が、光圀筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」。