残ったものは、鎌倉幕府がうばったとみていいのだろう。
栄華をほこった平泉の藤原三代は、海洋用の船を3隻以上もち、京都と活発な経済交流をしていた。角田文衛氏によると、京都に立派な出先機関「平泉第」をもち、情報収集、政治工作もおこなっていた、と推測している。鞍馬から源義経を平家の目をぬすんで奥州にとどけられたのも、平泉第の情報力、組織力あってのこととみる(「薄暮の京」2001年、東京堂出版)。
「平泉第」では、砂金、馬を献上し、奥州の年貢をおさめる一方、当時最先端の京の仏像、仏画、経典、工芸品、陶磁器などを手にいれてはこんだ。平泉の毛越寺のため、京の仏師雲慶に、薬師如来、十二神将をつくらせた。
金の鶴。12世紀、同じころの制作。
鶴は足をそろえ、翼をひろげて、銀製の枝にとまっている。平泉の金造鶴も、こうだったのか、とおもわせる。
次は、瑠璃燈爐。青のガラス小玉を何本もの銅線に通し連ねて、燈籠の火袋の側面にたらしたもので灯明がガラスをとおして、青く光る、幻想的なものだったようだ。春日大社の社伝では、藤原頼通から寄進されたとある。現存のものは鎌倉期以降らしい。本殿の正面にかけられたことが、鎌倉時代の絵巻によってわかる。
平泉の失われた遺宝は、春日大社でしのぶことができる。ということは、銀造猫の面影も、「沃懸地螺鈿毛抜形太刀」にのこっているのではないか=上掲写真。猪熊兼樹氏によると、この太刀に代表されるように、宋代にえがかれた猫の特徴は、
1)リボン(首玉)を首の後ろ側で丸結び。
2)リボンの特徴は、結び目の余りを2本のこしていること。
3)猫は、トラ猫や黒猫などではなく、斑紋を備えた短毛種であること。
結論
平泉の幻の銀造猫は、リボンが首の後ろにゆわえられていた「ブチ猫」だった。
我が家のブチ猫の写真に、リボンを描いてみるとー。