ムカデ話続き。
蜈蚣=ムカデ=が、呉公=ゴコウ=と表記されている日本最古のものは、古事記だろう。
ムカデの表記は、「呉公」。8世紀、「呉公」はまぎれもなくムカデのことだった。
一方、日本書紀には、伎楽が伝えられたときのことが書かれている。推古20年の条。長いが、興味深いので引用すると。
「この年、百済から日本を慕ってやってくる者が多かった。その者たちの顔や体に、斑白や白癩があり、その異様なことを憎んで海中の島に置き去りにしようとした。しかしその人が、『もし私の斑皮を嫌われるのならば、白斑の牛馬を国の中で飼えないではないか。また私にはいささかな才能があります。築山を造るのが得意です。私を留めて使って下されば、国のためにも利益があるでしょう。海の島に捨てたりして無駄なさるな』といった。それでその言葉をきいて捨てないで、須弥山の形と、呉風の橋を御所の庭に築くことを命じた。時の人はその人を名づけて路子工といった。またの名を芝耆摩呂といった。
また、百済の人味摩之が帰化した。『呉の国に学び,伎楽の舞が出来ます』といった。桜井に住まわせて、少年を集め伎楽の舞を習わせた。真野首弟子・新漢済文の二人が習って、その舞を伝えた。これが今の大市首・辟田首らの先祖である」(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)
ポイントは
推古20年に百済経由で呉=中国江南地方から、技術者が多数渡来した。
伎楽は、橋建設や作庭の土木技術とともにつたえられた。
技術者には、江南地方とはおそらく出自が異なる白い顔の者がいた。
「呉風の橋」は書紀の原文では「呉橋」となっている。
呉橋って何?
以下が蜈蚣橋。
現存する最古のものは17世紀ごろのものだが、橋自体は古くからあった。地元の人たちは、伝統的なこの形の橋を「蜈蚣橋」とよんでいる。両岸をまたぐ正面の姿からか、あるいは、何本もの木材による橋の橋脚、意匠がムカデの足に類似しているからか。
推古朝に渡来した土木技術者・路子工が建設した呉橋が、当時もムカデ橋とよばれていたとしたら。同時につたわった伎楽の呉公=ムカデと、奇妙にも符合しているといえないか。
仮説を立てると、「呉」からは、「ムカデの文化」がつたわった。主たるものは、ムカデと称する土木技術だった。この技術は、その後、鉱山の坑道作りに活用された。重量にたえる橋の構造設計の技術は、坑道を支える内部設計に役だたないはずがないから。

白斑の路子工も、白い顔の酔胡従の伎楽面と似ていたか