7世紀天智天皇は、条里も作れないほど狭い大津になぜ京を建設したのか?
不思議のひとつ。
それは、大津京だけではなくて、琵琶湖を隔てた湖東地方もセットにして、都を作る計画だったからだー。
長谷川修氏の大胆な仮説を知ったとき、うなってしまった。「近江志賀京」(六興出版、1978)。
湖東を旅して目を瞠るのは、豊かな稲田と、古代文化の痕跡があちこちに散在していること。
比叡東麓の大津と、湖東の蒲生野と合体して考えると、広大な幻の都城が浮かび上がる。船を用いれば、対岸の行き来も遠くない。
聳え立つ岩山に石段が続き、社殿がはるか上に建っている様は、中国寺院や道観の光景かと見まがうほどだ。近くにある三上山や、関東の筑波山にある奇岩と似た岩々が山中にあふれる。私たちは、割れた岩の狭間を通ってたのしんだ。
調べるほどに、湖東は奥が深い。
中世の書には、湖岸で、走り、湖に飛び込み、棒を使ってジャンプする、といったアスリートさながらの修験者の超人説話が多く残されている。
対岸の比叡山延暦寺の僧たちの訓練のフィールドになっていたかのようだ。湖東の山や岩や寺が、印度や中国、そして比叡から空を飛んできたとの説話も多い。石塔寺の石塔は、アショカ王の墓が印度から飛んできたものという。なんという荒唐無稽。
湖東には、想定外の何かがまだ埋まっているような気がして、おもしろい。
湖東三山 百済寺からの眺め