「幽玄」の世界へむかった和歌の藤原俊成・定家親子と、歌合せで激しく対立したこの歌学者は、心のうちよりも、外の世界に好奇心をもっていたようにおもえるのだ。
そして、とにかく物知り博士。比叡山で修学し、離山した歌僧で、六条藤家の顕輔の養子。父母は不明という。
柳田国男「野草雑記・野鳥雑記」に彼の名前がでてきて興味をもった。「モズの速贄(はやにえ)」について、彼がはやばやとしるしている。
肉食のモズは、木の枝に蛙などをさして、そのままにしておく習性があって、そうよばれている。
「五月ばかりにもずまろ、もろもろの小鳥若しくは蛙などを捕りて、木の枝などに貫ぬき置くことあり」とモズの生態を12世紀末にかきとめた。
モズを「もずまろ」=鵙麿とよんでいる。そして、「是を鵙の速贄とは云ふなり。時鳥に借りしをわきまふると也」。
「鵙の速贄」という言葉が、すでにあったことがわかる。驚くのは、枝にさした蛙や小鳥は、鵙がたべわすれたためでなく、時鳥=ホトトギスへ借りをかえすため、といっていることだ。
日本にすむモズは、年中大きな声でなくが、ホトトギスが南方から日本にやってくる夏になると、とたんに控えめになる。
そんなこともあって、モズはホトトギスに頭があがらない、とおもわれていたらしい。
壷の碑は、東北の陸奥の国で、征夷大将軍の坂上田村麻呂(758-811)が、のこしたとされる伝説の碑で、 顕昭は「日本中央」と弓の筈で、田村麻呂が書き付けたと詳しくかいている。明治初め、天皇が「壷の碑」探しを命じたが、見つからずに、戦後になって、「日本中央」とかかれた謎の石が青森で発見されている。