定家のライバルが面白そうだ

 国文学に詳しい人は、いまさらなにを、とおもうのだろうが、平安時代から鎌倉時代への移行期にいきた藤原顕昭という人物がなんとも興味深い。「ふじわら・けんしょう」(1130年ごろー1209年ごろ)。
 
「幽玄」の世界へむかった和歌の藤原俊成・定家親子と、歌合せで激しく対立したこの歌学者は、心のうちよりも、外の世界に好奇心をもっていたようにおもえるのだ。
 
 そして、とにかく物知り博士。比叡山で修学し、離山した歌僧で、六条藤家の顕輔の養子。父母は不明という。
 
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  柳田国男「野草雑記・野鳥雑記」に彼の名前がでてきて興味をもった。「モズの速贄(はやにえ)」について、彼がはやばやとしるしている。
 
 肉食のモズは、木の枝に蛙などをさして、そのままにしておく習性があって、そうよばれている。
 
「五月ばかりにもずまろ、もろもろの小鳥若しくは蛙などを捕りて、木の枝などに貫ぬき置くことあり」とモズの生態を12世紀末にかきとめた。
 
 モズを「もずまろ」=鵙麿とよんでいる。そして、「是を鵙の速贄とは云ふなり。時鳥に借りしをわきまふると也」。
 
「鵙の速贄」という言葉が、すでにあったことがわかる。驚くのは、枝にさした蛙や小鳥は、鵙がたべわすれたためでなく、時鳥=ホトトギスへ借りをかえすため、といっていることだ。
 
 日本にすむモズは、年中大きな声でなくが、ホトトギスが南方から日本にやってくる夏になると、とたんに控えめになる。
 そんなこともあって、モズはホトトギスに頭があがらない、とおもわれていたらしい。
 
 藤原顕昭は、謎めいたことに興味をもち、諏訪湖の氷がわれてもりあがる「御神渡り」や、宇治の橋姫伝説、陸奥の国の「壷の碑(つぼのいしぶみ)」の記述をしている。
 
 壷の碑は、東北の陸奥の国で、征夷大将軍坂上田村麻呂(758-811)が、のこしたとされる伝説の碑で、 顕昭は「日本中央」と弓の筈で、田村麻呂が書き付けたと詳しくかいている。明治初め、天皇が「壷の碑」探しを命じたが、見つからずに、戦後になって、「日本中央」とかかれた謎の石が青森で発見されている。
  本物の証拠もなく、むしろ、宮城県多賀城碑が「壷の碑」だという説が有力らしい。ただし「日本中央」の文字はない。