「清俗紀聞」に記されていた凧のこと

 凧をトンビ凧、「紙鳶」と表現したのは、日本が英国のkite同様、凧を鳶ととらえていたからと書いたが、「紙鳶」という言葉は日本製ではなく、そもそも江南地方でつかわれた中国語だった。
  18世紀後半の江戸時代、長崎奉行の中川忠英がまとめた図入りの「清俗紀聞」(東洋文庫)をみて気付いた。
 清代の福建、浙江、江蘇地方の風俗などを、長崎に来た清の商人たちから聞き出してまとめたものがこの本で、凧揚げに関しては「正月・二月・三月の間、小児ども紙鳶を揚ぐる」と書かれている。「紙鳶」は、「しえん」と読むのだろうが、中国語(広東語だろう)では、ツーインのルビがふられている。
 
 さらに、「紙鳶一名鹞子(ヤウツー)。人形・胡蝶あるいは魚鳥の形種々あり。大小等しからず」。
 凧は鹞子(ハイタカ)とも呼ばれ、人、蝶、魚、鳥をかたどった各種があり、大きさもとりどりだった。
  清朝乾隆時代(1736-1795)江南地方では、凧はトビやハイタカに例えられたことがわかる。
 
 東洋文庫「清俗紀聞」の編者孫伯醇、村松一弥の注に、これらの地方では、1月から3月に東風がいっせいに吹き、その風に乗せて凧を揚げたとある。春到来を慶ぶ習慣であった。
 
 日本の凧は、江戸時代に3つの呼称があったとも。
①いかのぼり   大分・福岡そして近畿・中国・北陸・四国
②たこ      関東など①のほかの地域
③はた      長崎
  日本名の起源は、いかが先か、たこが先か。
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 1887年ロンドン発行の「CHINA」(ROBERT K.DOUGLAS著)の挿絵に、19世紀末の清国の凧揚げの様子が使われていた。北京近郊では凧揚げシーズンは秋で、大人が楽しむ。凧ひとつとっても、中国の南北で風俗習慣は異なっているとあらためて思う。