10年がかりの仕事をおえ、米国から戻って来た後輩と飲んだ。
年下なのだが、「リスペクトしている」。
懐かしい話になった。
彼は、フィリピン人の日本プロ野球選手、アデラーノ・リベラ(1939年巨人軍在籍)の活動を掘り起こしたことがあり、日本の野球選手を連れてマニラを訪ねたことがあった。
彼はまたジャズファンであり、NYではジャズクラブに通っていたので、「プロ野球もジャズも、日本の草創期にフィリピンの影響を受けたんだよね」と話をふった。
彼は「日本のジャズは進駐軍からじゃないんですか」と驚いた様子だった。
「フィリピンのコンデ兄弟たちが戦前の日本でジャズをひろめたんですよ」
フィリピンの日本への貢献は大きいのだ。家に戻ってから、フィリピンのことを思った。
伊藤行男「南方素描」(昭和17年)は、船医の航海記で、香港、フィリピン、タイと訪問地の様子を素描を添えて記している。
「長崎を出てから五日目の朝、前方に比島の山が見え始めたと、チーフメートがしらせてくれた。ブリッヂにのぼってみる。青海原の彼方、水平線上に、頂きを雲につつまれた山肌がぼんやり浮かんでゐる。/フィリッピン群島だ。ルソン島の北端だ。/

朝から、ひっきりなしに、マニラのラヂオが、民謡やヂャズ音楽を送っている。はや口な英語のアナウンス、ものういやうなタンゴのメロディー、思ひ出したやうにわめきたてるフォックストロット、マニラが刻々と近づいてゐる感じだ。」
フィリピンに近づくと、ラジオからジャズもながれたのだな。
若かったころ、水中カメラマンと軍事評論家の卵だった年上の二人の男性と、フィリピンのカランパン半島の海に、うそみたいな仕事で1週間過ごしたことがあり、ソンブレロ島の周囲を、船でまわり、サメをさがし、フィリピンのひめられた海の美しさ、魚種の多さを堪能した。
フィリピンの街中は油断ならなかったが、海はすばらしかった。

身体から疲れが抜けるような心地よい歌を、眠る前に聴いた。