梅宮社祢宜が書き残した「まづあるじゃげな」

橋本経亮をおっちょこちょいと書いたが、私の方がおっちょこちょいだった。 法隆寺の出開帳は、そうたびたび京都では行われていないのだった。伽藍修復の資金集めのために、江戸時代を通して京都は江戸とともに2度行われたにすぎない。 元禄7年(1694…

ダン王の黒猫と法隆寺御開帳

猫で有名になり、今では猫目当ての参拝客で賑わう洛西の梅宮大社であるが、江戸時代この神社には国学者の橋本経亮(1755-1805)という神官がいた。 経亮は、随筆集「橘窓自語」を著し、その中で京都三条大橋の近くにあった「ダン王」こと檀王法林寺…

南陀伽紫蘭(なんだかしらん)の描く猫

江戸時代の戯作者に「なんだかしらん」という人物がいる。「南陀伽紫蘭」と表記している。 現代にも「南陀楼綾繁」(なんだろうあやしげ)という物書きがいるので、ご先祖のような名前だと興味を持っている。 紫蘭は、もともと画師として知られた窪俊満(1…

「かぶねこ」と「ごんぼう」の短尾猫

浮世絵に描かれた猫の尾を長い尾、短い尾、ボブテイルの3つに分けたが、短尾とボブテイルを一緒にして、「短尾」として括るケースが多いようだ。確かにbobtailの意味には、無尾のほか短尾も含まれている。 ただし、浮世絵で歌川国芳が好んで描いた猫の短い…

浮世絵猫の尻尾は3タイプ

幕末から明治初頭に活躍した仮名垣魯文(1829-1894)は、芸妓を猫と言い出したことで知られる。芸妓の内幕を描き、「猫々奇聞」「猫晒落誌」などのタイトルで連載して評判になったという。 自ら猫々道人(みょうみょうどうじん)と名乗り、また榎本…

春草の「黒き猫」と泣菫の一言

重要文化財「黒き猫」の作者、菱田春草(1874-1911)は明治時代、日本画の改革を進める岡倉天心、横山大観らとともに、日本画壇から猛反発を受けながら、新しい日本画の道を切り開いた人物として知られる。 36歳で亡くなったため、大観の陰に隠れているが、…

武芸の極意を伝授した猫

猫にも「名人伝」があるとすると、この猫が第一候補なのだろうか。 こんな話を最近知った。知られた話らしい。 江戸時代、勝軒という剣術者の家に、大きな鼠が出て昼間から暴れた。鼠を部屋に閉じ込め、手飼いの猫を入れて退治することにした。鼠は予想外に…

正月の翁に齢を聞くな

門松や冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし という正月に、老人に齢を聞く人がいる。困ったものだ。 80歳を超える長生きをした江戸時代の俳諧師横井也有(1702-1783)も新年に齢を聞かれたらしい。 俳文集「鶉衣」に、いきさつを書い…

百亀の小噺に出てくる銀の猫

偶然聞いた落語で興味を持った小松屋百亀(1720-1794)について、さらに調べて見た。 「擬宝珠」の原形の小噺が収録された「聞上手」の直後、続編の「聞童子」(安永4=1775)が刊行されていたことを知り、こちらも目を通した。 落語「一目上…

落語「擬宝珠」と秘薬「文武丸」

正月、NHKで上野の鈴本演芸場から中継があり、柳家喬太郎が「擬宝珠」の演目を早口で演じていた。あまりにおかしな話なので聴き入ってしまった。 どうおかしいかというと、息子が元気がないので、心配した親が幼馴染に頼んで、理由を聞きだしてもらった。…

ねずみと「ぬ」の字

平熱なのだが、訳あってクリスマス明けまで禁足状態になってしまったので、猫とまた自室で何かを考えて過ごすことにした。 猫も関心を持つだろうから、落語「金閣寺」に出て来るネズミの絵について考えてみた。 ある寺の小僧が、門前の花屋で≪実は私はただの…

人間万事西行の銀猫

古書肆から取り寄せた「川柳狂詩集」(昭和3年、有朋堂書店)を流し読みして、ある川柳を見つけた。文政年間(1818-1830)の作品の部にあった、一之という作者のものだ。 煙管(きせる)がなんぼ出来ベイナア此猫で 西行の銀の猫 源頼朝から西行が…

升おとしと借りた猫

帰宅すると、猫が木桶の中に納まっていた。 細に、いくらなんでも飯台はまずいだろう、と注意すると、飯台ではない、贈答で溜まった京粕漬「魚久」の木桶、捨てるのはもったいないので、猫用にした、という。 猫は丸いものが好きで、丼に入った猫の写真が一…

柳亭種彦の「草より出でて」の考証

「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」 この歌は、和歌ではなく室町時代に作られた俳諧連歌ではないか、と江戸時代後期の戯作者柳亭種彦が鋭い指摘をしている。 「用捨箱」(天保12年、1841刊)という考証随筆集で「俳諧の句を狂…

月の出づべき山もなし 

遊びに来た3歳の孫娘と屋上で皆既月食を見た。双眼鏡でうまく月が見られなかったせいもあってか、飽きてしまい「かくれんぼしよう」といってぱたぱたと屋上を走り回る。月が全部隠れたと伝えると、「お月さんが可哀そう」といってまた走り出した。 皆既食は…

秋櫻子と川田順の「との曇り」

洋画家船川未乾が装幀した歌人川田順の歌集「山海経」(大正11年三版、東雲堂書店)をあらためて手にした。川田の大和路の歌を読んで、なにか似た世界を思い起こした。俳人水原秋櫻子の昭和初期の句だ。 秋篠寺 あきしのの南大門の樹(こ)の下は蛇も棲む…

なぞなぞを解いた芭蕉の句

「猫多羅天女」について書いた鳥翠台北茎についてもっと知りたいと思ったが、金沢の俳諧師であることしか分からない。 「北国奇談巡杖記」には、加賀国の、十人が橋に居ても九人しか水に映らない「九人橋の奇事」や、殺され沼に沈められた老僧の叩く鉦鼓が夜…

空飛ぶ猫多羅天女

空飛ぶ猫、空飛ぶ化け猫の話が江戸時代の後期に書き残されているのを知った。 文化年間(1804-1818)に刊行された鳥翠台北茎(ちょうすいだい・ほっけい)「北国奇談巡杖記」に、「猫多羅天女の事」という話が掲載され、空飛ぶ猫が出てくるのだ。 …

古本に挟まっていたカラヤン公演の名残

昼すぎ事務所を出て、神田神保町あたりを散策する。街は女子高生、大学生、本探しの高齢者、そして海外からの観光客で賑わいが回復しつつある。古レコード店の御主人も何年かぶりに雑貨の仕入れにネパールへ出かけ、戻ってきた。 古本街の店外に置かれている…

猫と花瓶を巡るたたかい

我家の猫はノラだったせいか、飼い主の私達以外には心を許さない。息子の家族もダメで、玄関でピンポーンとなると、押し入れなどに隠れてしまう。孫娘が探し出して触ると、猫は緊張して目を瞠り、後ずさりする。 最近は、夕食を息子一家4人で食べに来ること…

左団次のページェントと歴史学者の証言

「漢委奴国王」の金印について、なぜ本物の金印が2つ存在するのだと、意味深な文章を書いた学者がいる。東洋史学の宮崎市定京大名誉教授(1901-1995)。92年刊行の新書の一節で目にした私は気になって仕方なかったが、詳しいことはその後も書か…

ハンベンゴロウと林子平

久しぶりに知人と渋谷道玄坂の店に繰り出した。若い男女の人波をかいくぐって、坂を上っていった。店の客は年配ばかり。女将さんもかっぽう着姿。渋谷にいることを忘れさせた。 おでんがあったので、はんぺんを頼んだ。「ハンペン」と口に出しながら、「ハン…

70歳の白箸翁と深草の土器翁

事務所近くの理髪店は主人を入れて3人が働いて居る。客としては、誰に当たるかで、若干髪型が違ってくる。3人のうち、ひと月位経っても、髪型が崩れないのが唯一人の女性理髪師だ。 今回店に行くと、その女性がおらず2人で回していた。主人は「病院へ検査…

高山彦九郎「京日記」から見えること

上皇さまが皇太子のころ、来日音楽家の御前演奏会の手伝いで東宮御所に入ったことがある。ガラス張りの広間で、指揮者の渡辺暁雄さんの司会者で、両陛下と数十人のお客さんが鑑賞するなごやかな会であった。 演奏後、歓談の場があって、招待を受けていた旧知…

秋里籬島と藤貞幹の密かな関係

江戸中後期に多くの名所図会を編輯した秋里籬島という人物も謎が多い。 藤川玲満氏の「秋里籬島と近世中後期の上方出版界」(14年、勉誠出版)を取り寄せた。同書によると、近年秋里の出自に関する史料が発見され、祖先は鳥取市にあった因州秋里城主に仕え…

ほろ苦い立原翠軒の上洛

ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした この村に ひとしきり 早逝した昭和の詩人立原道造の「はじめてのものに 」は、いまも出だしだけは覚えている。浅間山の小噴火で、ふもとの村に灰が降ったのを、こんな風に表現するのだった。 同じ学び舎で建築家…

不思議な鳥瓶子と貞幹

「都林泉名所図会」(寛政11年)で真葛が原の俳諧師西村定雅、富土卵の作品を取り上げた秋里籬島のことを前に書いたが、彼は好古家で考証学者の藤貞幹とも接点があった。 秋里は、安永9年「都名所図会」6巻を刊行し大ヒットを飛ばした人物。都の東西南北、…

那須國造碑と藤貞幹

江戸後期の京都の考証学者、藤貞幹のことを考えてみる。 彼の「好古小録」(寛政7年、1795)に掲載された「下野国那須郡那須国造碑」を眺めながら、どういう人物だったのだろうかと想像した。 この碑は、700年に亡くなった那須直韋提を子供たちが追…

シナモンが入っていた南蛮粽花入

10年前の誕生日祝いに、神保町の店で細に買ってもらった「南蛮・島物」の花入壺は机の上に置いてあるが、孫娘がやって来ると、クレヨンや色鉛筆を壺の中に詰めこむ悪戯をして遊んでいる。 頑丈なので、ちょっとのことでは壊れそうにないから、まあ許してい…

金印と藤貞幹の篆刻知識

江戸時代中、後期の京都の好古家であり、考証学の学者でもあった藤貞幹についても、金印偽作疑惑を調べてみることにした。 京都の佛光寺の塔頭久遠院に生れ一度は得度したが、18歳になって還俗した。仏教を嫌いその後「無佛斎」を名乗った。 自ら彫った「…