2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

森田恒友と喜田貞吉をつなぐ薄田泣菫

明治末から大正、昭和初期と、歴史家喜田貞吉が編集で腕をふるった学術誌「歴史地理」の表紙やカットを、画家で版画家の森田恒友が担当していたのではないか。その仮説で、何年も書いてきた。 森田らが創刊した版画誌「方寸」掲載作など森田の初期の作品に、…

幸徳事件と虚子

明治43年の幸徳事件は、初等教育用歴史教科書の文部省担当官の喜田貞吉ばかりか、俳句誌「ホトトギス」の主宰高浜虚子にも大きな転機を齎したのを、最近知った。 同誌から生まれた作家夏目漱石のように、小説家を目指し作品を発表していた虚子は、同年「ホト…

コロナとニュートン

先輩からGWの前にがあり、「水戸黄門の現役時代、ロンドンはペストで閉鎖された。ケンブリッジ大のひねくれ学生が、ロンドンを脱出し田舎で18か月過ごすことになった。その間、学生はぼんやり庭でリンゴの実が落ちるのを見て、万有引力の発見をした。数学…

喜田貞吉の旅行記で描かれた那珂通世

南北朝正閏問題が起きる6年前の明治38年5月に、三宅米吉と喜田貞吉は清国への視察旅行で同行している。日露戦争中の陸軍招待によるもので、東京師範学校幹部ら一行は日本海海戦のさなかに出発した。一行は 嘉納治五郎 高等師範校長 当時 44歳 那珂通世 〃 …

喜田貞吉と米吉祝賀会

ここまで書いてきた三宅米吉のことは、多くの歴史家、教育学者らの記述がもとになっていて、新史料があるわけでないのが、心苦しい。ただ、長年断続的に、米吉のことを考えてきて、「三浦安」を補助線にすると、別のことが見えてくるのではないか、という思…

三宅米吉の金港堂時代

大英博物館へは、一度だけ訪ねたことがある。小学校の息子が夏休み、BBCに勤めていた知人宅で預かってもらったのを、迎えに行った時だ。すでに息子は知人家族と博物館に見物に行っていたが、幸いエジプトの遺宝を見に、もう一度行きたがった。 明治時代、…

三宅米吉の留学まで

やがて、東京文理大学長、東京高等師範学校長になる三宅米吉は、学校教育を受けたのは、わずか、紀州藩の藩校学習館の数年間と、13歳からの慶應義塾の3年間だけだった。いまで考えると、高校中退だった。 昭和4年の米吉の古希祝賀会で、元文相鎌田栄吉(当…

重野安繹の後輩だった三浦安

三浦休太郎(1829-1910)は、王政復古の後、安(やすし)に改名する。39歳だった。 明治5年 大蔵省7等官 明治6年 左院4等議官 明治7年 地方官会議御用掛 明治8年 内務省5等官 明治9年 内務省大丞 図書局長 5年目で大丞になる。内務省のナンバー…

三宅米吉と三浦休太郎

歴史学者白鳥庫吉の千葉中学校時代の先生で、一緒に伝通院境内で起居をともにした歴史学者三宅米吉について、しばらく追ってみることにする。 三宅の身近に、明治時代の修史行政に携わった官僚の大物・三浦安(旧名・休太郎)がいたので、どういうつながりが…