猫の絵を通して鳥獣戯画を見直す

 猫を通して、鳥獣戯画を見てみることにした。

 

 高山寺に伝わる鳥獣戯画は20数種の動物が登場する絵巻4巻で、まんがの元祖といわれるように、動物(人間も)の動きが活き活きと描かれている。

 

 また鳥獣戯画には他に伝承された模本などがあり、高山寺本は切り取り、貼り付けなど大胆に編集されたことが分かっている。2009-2012年の修理作業で判明したことが多数あり、活発な意見が交わされているようだ。

 

 甲巻  兎、蛙、猿が賭弓、相撲などで遊ぶ

 乙巻  動物図鑑

 丙巻  人間が双六、闘犬などで遊ぶ後、猿と蛙が葉っぱの烏帽子姿で登場

 丁巻  人物のみで、滑稽な遊びに興じる

 

 猫が登場するのは2か所。

甲巻  烏帽子姿の猫が、ひっくり返った蛙を振り返って見る

丙巻  葉っぱの烏帽子を着けた猫が体を丸めて座っている

 

  



 高山寺本が編集される前の、鳥獣戯画を模写したとされる住吉模本5巻の第5巻にも猫が登場する。編集の際に、甲巻から切り離された断簡が住吉本の5巻にあたるとされている。

 烏帽子を被った猫。 

 

 3匹に共通するのは、虎猫であること、烏帽子着用していること(葉っぱの烏帽子も含め)。

 最新の興味深い説は、人物の絵巻(丙)が先に書かれ、その後に人物を動物に移し替えた絵巻(甲)が制作されたというものだ。

 甲巻は丙巻の後に、作られたというものだ。

 猫でみると、葉っぱの烏帽子猫が先で、立った猫はその後に描かれたことになる。

 

 座った猫の画像は平安末から鎌倉時代にかけて、「信貴山縁起絵巻」=写真=「沃懸地螺鈿毛抜形太刀」「童子曼荼羅」にも描かれていて、顔は「童子曼荼羅」の猫鬼に似ているのだそうだ(山本陽子「「鳥獣戯画の猫と童子曼荼羅」(明星大学全学共通研究紀要3号、2021年)。

 

 マンガのような立った猫は、どういう過程で誕生したのだろうか。甲巻には、猫と似た動作をしているキツネの絵があるのに気づいた。立って歩きながら視線を投げている姿。 

 

 住吉本の猫も、両肩を広げて立つ様子は、甲巻のキツネの姿とよく似ている。

 

 

 同じ作者であった可能性が高い。模本なので筆致はことなるが、住吉模本第5巻の原本は、切り取られる前は甲巻にあったことをうかがわせる。

 

 

酔胡従の割れた鼻について

 前に書き散らしたことの整理を始めることにした。まずは伎楽の面のこと。

 飛鳥時代伝来したとされる「伎楽」は、笑いの要素がたっぷり詰まった舞だった。十ほどある出し物には、酔っぱらいの模写、おむつ洗いのマネ、女人にちょっかいを出し、叩きのめされる男の様もあった。

 伎楽は絶えてしまったが、狂言の故野村万之丞氏は再興に向けて尽力した。「大田楽」と銘打った野外劇を見物したこともあって、同氏の試みに注目していたが、働き盛りで逝去してしまった。

 前に書いたのは、野村氏がブータンで出会った古い仮面劇「ベーチャム」のこと。その中の「ポレモレ」という物語を見て、伎楽の原型ではないかとひらめいたという話だ。正倉院東大寺法隆寺などに残る伎楽面には、鼻が欠けたり、修復されたものが多いのに気づき、同氏は呉女の面だと見ていた。

 「ポレモレ」はポ王、モ后の物語で、ポ王が戦いに出ている時、モ后は召使の婆にそそのかされて、浮気してしまう。戻った王にばれてしまい、后は鼻を斬り落とされてしまうのだった(鼻は婆羅門の治療で元通りになる)。 

 野村氏は、呉女の原型はこのモ后であり、だから呉女の面の鼻が欠けていると推定したのだった。(「マスクロード」02年、NHK出版)

  

 同書に興味を持って、私も正倉院に残された伎楽面を調べてみたところ、鼻が欠損している大半の面は、呉女ではなくて「酔胡従」の面らしいことが分かった。

 石田茂作「正倉院伎楽面の研究」(1955、美術出版社)で確認しただけで、最低5面あった。

  

 酔胡従というのは「酔胡王」に従う群衆役(4-8人位か)で、伎楽の最後の出し物「酔胡」に登場する。しかめっ面だったり、笑ったり、怒ったりと酒のみの生態を表した面をつけ、酔っぱらいの仕草でコミカルに舞ったとみられている。

 美術史家の野間清六氏などは、伎楽のフィナーレであることから、酔胡王をギリシャの酒神バッカスに例え、「聯想されるのは・・・バッカスの信者の扮装行列に、ディオニソスや陽物のシンボルに対する讃美者が合流し、この陽気な一団のコモスが、群衆に諧謔を投じながら練り歩く光景である」(「日本仮面史」昭和18年)と記し、劇の終わりの陽気な騒ぎだったと推測している。

 酔胡王、酔胡従の面の特徴、とりわけ尖った長い鼻はそんな経緯もあると思ったのだろうか。

 私は、同じように酔っぱらいが舞う舞楽「胡徳楽」を調べてみた。高麗楽の演目とされている。9人の酔っぱらい(胡童)が輪を作って舞うもので、輪に「勧盃」と「瓶子取」の演者が分け入って、胡童たちに酒を勧めるのだった。

 

 鼻が左右にぶらぶら動く

 

 胡徳楽の面は伎楽面と違って、鼻が尖っていない。長い鼻がくっついているのだ。面の鼻を覆うように長い別の鼻が付けられ、左右に動く工夫がされている。

 演目では、胡童たちの酔いが回ると鼻が動き出す、酔いのバロメータとして鼻を活用しているのだ。胡童の鼻が次々に動き出すが、1人だけ動かない。そんななか、瓶子取は酒を持ち出し、陰でコッソリ飲む。酔った瓶子取はこれまたヘンテコな踊りを始めるのだー。

 

 平安時代の「教訓抄」には、「伎楽」の「酔胡」の後に「武徳楽」の演目が記されている。残念ながら内容については触れていないが、「胡徳楽」と名称は似ており、あるいは、相似した酔っぱらいの舞だったと考えていいのではないか。

 伎楽の多くの酔胡従の鼻が欠損しているのは、極端に尖った長い鼻が壊れやすかったからであるのは間違いない(同様の鼻の波羅門は折れていないが)。

「胡徳楽」の酔っぱらいの面で鼻が動くように、伎楽でも高い鼻が舞台で別の役割を担っていたのかもしれない。そのために面の鼻の部分が壊れやすくなってしまったのかもしれない。

 野村氏のひらめきに触発されて、考えて来た結果はごくごく平凡なものに終わってしまった。

 

 

 

 

 

蘇鉄と信長猫

 滋賀県は10月に安土城天主台の周辺調査を開始した。20年がかりの計画という。

 安土城の大庭には蘇鉄が植えられていたと、歌舞伎、浄瑠璃「絵本太功記」(1799)に出てくるのを思い出した。織田信長は堺の寺院「妙国寺」の庭に植えられていた大蘇鉄が気に入り、強引に安土に移植したという逸話だ。

 城に植えられた蘇鉄は、夜な夜な声をあげている、という噂が立った。「妙国寺へ帰らん、帰せ~」と声を発しているというのだ。

 

 太功記の基になった「絵本太閤記」(1797)によると、信長は森蘭丸とともに噂を確認に庭に出た。たしかに声が聞こえる、これは妖怪に違いない。信長は翌朝300人を集めて蘇鉄の伐採を命じた。

 ところが、男たちが斧を入れようとすると、次々に倒れ血を吐いて悶絶死した。蘇鉄に慄いた信長はそのまま妙国寺に戻すことに決めたのだった。

 この逸話は、浮世絵師たちは恰好の題材となった。月岡芳年は「和漢百物語」(上図、部分)、歌川芳艶は「瓢軍談五十四場」で取りあげた。

 

 

 

 異国情緒が好まれたのか、蘇鉄は桃山時代から江戸時代にかけて流行したようだ。二条城二之丸庭園、本願寺大書院庭園にも植えられた。妙国寺の蘇鉄に目を付けた信長の逸話が事実なら、安土城が先鞭をつけたことになる。=上は、妙国寺蘇鉄之図部分(1750)。

 東海道・赤坂の宿にも蘇鉄が植えられ名物だったようで、歌川広重は「東海道五十三次 赤坂・旅舎招婦ノ図」で宿の庭の蘇鉄を描いている。

 

 私が魅かれるのは、金魚を狙う猫の後ろに、蘇鉄が配されている礒田湖龍斎(1735-1790)の美しい錦絵だ。シカゴ美術館に収蔵されている「Cat Pawing at Goldfish」。

 白地に黒のあでやかな斑紋の猫が右前脚を金魚鉢に突っ込み、無防備な金魚に狙いを定めている。

 

 

 湖龍斎は「見立絵」を始めた美人画の鈴木春信(1724-1770)に学んだ。春信は、源氏物語の情景を置き換えて、当世吉原の美人画を描いたり、絵に古典の見立てを仕掛けをした画家だった。絵を見る者に絵の美しさとともに、絵の背後にある古典の見立てを探らせる楽しみ方を開発したのだった。

 

 あるいは、湖龍斎はこの猫の絵でも、師匠から学んだ見立てを仕掛けているのではないか。

 蘇鉄をヒントにしてみる。猫の背景の蘇鉄の描き方は、妙国寺の蘇鉄の絵に似ている。金魚を狙う美しくも残忍な目をしたこの美しい猫は、湖龍斎が信長に見立てた猫ではなかったか。

  残酷な性格を持った信長が猫だったら、金魚を狙うこんな猫になるのではというわけだ。あるいは、猫には信長に似た残忍さを持っている、と湖龍斎は見ていたのか。

 私はこの猫を勝手に「織田猫」「信長猫」と呼んでいる。

 

 

たくらだ猫とインドキョン

 猫の諺はたくさんあるが、「タクラダ猫ノ隣アリキ」という諺があるのは、知らなかった。安土桃山時代の頃の諺として書き留められていたのだった。

 



 藤井乙男編「諺語大辞典」(明治43年、有朋堂)を見ると、

タクラダ猫ノ隣アリキ

 タクラダは愚鈍なる者をいふ。のら猫の遊びあるきて、用に立たぬをいふ。【北條氏直時分諺留】

 

 小田原城主北條氏直(1562-1591)の時代に広まっていた諺ということだ。藤井氏は、昭和4年「諺の研究」(更生社)を上梓し、「北條氏直時代諺留」の全文を紹介した。諺語辞典を編纂しているとき、東大で総紙数6枚、半紙の写本を探し当てたと書いている。多賀常政という蒐書家が安永2年に堀口率貞の蔵本を書写したものを、藤〇(不明)が寛政2年に写しとったものだった。多賀によると、元本は荻生徂徠の父の蓬庵の自筆だったとしている。

「やす物の銭うしない」「能ある鷹は爪かくす」などは、この頃から言われていたことが分かり、「窮鼠反て猫をかむ」「年よれば犬もあなどる」など犬や猫の諺もあった。

 うちの馬鹿猫は、わが家の鼠を取らずに隣家をウロウロ歩いている、というのが「タクラダ猫ノ隣アリキ」らしい。それが「役立たず」を意味するようになったようだ。

 

 タクラダ猫のタクラダという言葉が気になって新村出の「広辞苑」を見ると、

たくらだ 痴 田蔵田

「(麝香鹿に似た獣で、人が狩る時、飛び出して殺されるという)自分に関係のないことで愚かにも死ぬ者。ばかもの。うつけもの」とあった。

 タクラダは、人間が高級な香料の麝香を得るために、南アジアの森でジャコウジカを追うとき、自分が狩られると勘違いして慌てて飛び出して殺されてしまう可哀そうな動物のことだった。

 

 タクラダについて、他を捜したが詳しい記述はない。

 インドには「Thakurta」という姓がある。THAは、サともタともとれるから、タクラタに似ている。この姓をもつ著名な女優兼歌手のRuma Guha Thakurta という人がいた。おそらくタクラダは、インドの言葉なのだろう。

 

 ジャコウジカに似た動物は、インドキョン、ホッグジカ、バラシンガジカ、ターミンジカ、サンバー、アクシスジカ、シフゾウなどの鹿が上げられる。

 タクラダに似た名はない。強いてあげると、タ・ク・ラ・ダの「ク・ラ」が共通するインドキョンだ。

ヒンディ語 KUKUR 

カンナダ語 kan-kuri

マラティー語 bekra、bekur

テルグ語  kuka gori

 頭と尾にT音が付くと、少しだけだが似て来る。

 インドキョンは大きな声で吠えるので、ホエジカと言われるという。とび出して大声をあげれば撃たれてしまう。新村出博士はどこから、情報を仕入れたのだろう。

 

 インドキョンが、日本で長い間「タクラダ」(愚か者)扱いされてきたとしたら、ごめんなさい、とあやまるしかない。

 いまでも、東北地方日本海側、北海道では、「たくらんけ」という言葉が生きているという。「タクラダ」から生まれたらしい。「アホか」という意味である。

 

 タクラダ猫

 

 

 

 

殿上人をギャフンをいわせた鬼貫伝

 大伴大江丸が残した上島鬼貫の逸話は、俳諧師夏目成美の「伊丹鬼貫伝」に記されている。

 伊丹の造酒家の三男鬼貫(1661-1738)は、実家が公家の近衛家の領地だったこともあり、京都の近衛家に出入りすることがあったのだという。

 当時近衛家は近衛基煕(1648-1722)という和歌、絵画、書に秀でた人物がいた。近衛家には公家たちが集まって、歌の会などを開くことが多かったようだ。

 

 

「鬼貫伝」によると、≪近衛の御殿に殿上人らが集まって会を開いていた時、お勝手に三郎兵衛(鬼貫)が訪ねたことがあった。客人たちは「三郎兵衛は俳諧体の句を作っている男だ、召し出して句を作らせよう」と言い出した。呼ばれた三郎兵衛は皆の前に出ると、畏まって平伏した。

 近衛の殿は「俳諧の句を申せ、題などを出そうか」と語り掛けると、鬼貫は頭をあげて、座敷を見巡らして、床の間にある土佐派の誰かが描いた小町の掛け絵に目を止めた。

「あの掛物を寄越していただければ、賛を書いて奉りたい」というと、皆笑った。やがて差し出されると、三郎兵衛は硯を求め、少しもためらわず、筆をたぷたぷと墨で染め、小町の頭の辺りに、「あちらむけ」と五文字を書き付けた。皆は覗き込んで見守った。

 三郎兵衛は思案して再び静かに筆を執ると、「うしろもゆかし花の色」と書き付け、畏まった様子で後ずさりした。

 一同この様子をめで興じ、今日の会はこの三郎兵衛にやり尽くされたので、もはや興なしと散会したのだった。≫

 成美は「是は浪花の大江丸がものがたりなり」と記している。

 

 近衛殿や公家たちが、冷やかし半分で俳諧師鬼貫を試したところ、鬼貫は土佐派の掛け絵に目を付け、見事な書で「あちらむけうしろもゆかし花の色」と書き入れ、俳諧師の矜持を見せつけたという話の体裁になっている。

 

 少し検証してみた。

1)伊丹が近衛家の領地だったのは事実か。

 伊丹市のHPで確認できた。「江戸時代、伊丹郷町の大半は近衞家領であり、酒造家等から選ばれた惣宿老たちが近衞家の指示を仰ぎながら伊丹町政を運営する「会所」がありました」と記している。酒造家の上島家も近衛家の代官のもとで町政を司った惣宿老であった可能性はある。

2)近衛家の屋敷はどこにあったか。

 京都・今出川邸で、鬼貫の時代の建物は天明の火災で焼失した。当時の図面が残っていて、門は北面して大玄関に向かう表御台所門、朝廷の使者が通る東面の四脚御門の2つ。屋敷は東庭に面して南から北へ寝殿、大書院、白木書院、御居間と並んでいる。お勝手は西側で、表御台所門から塀に沿って左に進んで「御台所」「御清所」に至ったのだろう。公家の会は御居間で開かれていたとすると、勝手口の南西から廊下を左右しながら広い邸を北東隅まで案内されたと推測できる。

3)土佐派の某の絵とはなにか。

 土佐派は長らく衰退して狩野派の陰に隠れていたが、江戸初めに土佐光則、光起父子が京に戻り、後水尾天皇が光起をひいきにしたことから、1654年に85年ぶりの朝廷の絵所領職を取り戻した。近衛基煕も後水尾天皇の文化サークルの一員だったので、ここに登場する小町の絵は、土佐光起の作だったかもしれない。光起は掛け軸形式の立ち姿の美人絵(一人立ち美人図)も手掛けたので矛盾はない。土佐派といえば、金地濃彩の作品で知られ、そこに筆で賛を書くというのは、よくよく度胸と実力があったことを伺わせる。

 

 和歌と俳諧といえば、大江丸が活躍していた寛政2年(1790)に五摂家二条家が始めた「二条家俳諧」がある。名古屋の俳諧師加藤暁台が二条治孝と親しくなり口説き落としたもので、和歌の伝統で知られる二条家が、大衆文芸の俳諧師に、宗匠の免状を与える前代未聞の儀式を始めたものだ。

 芭蕉を顕彰する「正風中興」を旗印にしたため、芭蕉堂の高桑闌更ら多くの俳諧師が参加したが、宗匠の烏帽子姿などが京で揶揄され、また免許を得るために暁台、月居が二条家に御賄金各三十両を支払っていた事実も分かり反発も高まった。ついには月居が俳諧師から軍資金を徴収して二条家大坂城乗っ取りを企てるとの荒唐無稽の捨文事件が起こり、ニセの通報に幕府も取り調べを開始する騒ぎとなった。

 

 二条家俳諧に距離を置いていた大江丸だったが、捨文事件では35人の俳諧師とともに嫌疑が掛けられた。同じ五摂家近衛家を相手に、堂々と渡り合った元禄時代俳諧師「鬼貫」の逸話を大江丸が掘り出し、二条家俳諧にあてつけたかったのかと想像してみた。

 

 

 

 

 

猫の目時計を句にした鬼貫

 早朝散歩で出会った猫は、すでに瞳は針のように細く、はや正午を告げていた。ノルウエーの猫の血をひいているという。

 

 

 さて、猫の目が時を告げるという「猫の目時計」に関して、江戸時代の記述で新たな例を見つけた。文化11年(1814)、雑学家の石塚豊芥子(ほうかいし)が書き残した「猫盡し五大力」という戯文の出だし。(豊芥子日記)

猫撫声のぶちまでも、毛深き眉をもの思ひ、仮令(たとえ)へっつい(竃)でばばするとても、針と玉子の時をしる・・・

≪猫なで声のブチ猫まで、毛深い眉をひそめて何事か物を思い、へっついでババをしていても、針と玉子の時刻が分かっている。・・・≫

「針と玉子の時」とは、猫の目時計の「針と玉子」のことだろう。江戸時代作とみられる猫の目時計の歌と符合している。

 

 六つ円く、五七はに四つ八つは柿のたねなり、九つは

 

 猫の目が一日、円→卵→柿の種→針→柿の種→卵→円とくるくると変わることをもとに作られたもので、針は九つ(正午)、卵は五つ(午前8時)七つ(午後4時)にあたる。

 猫の目時計を初めて俳句にしたのは上島鬼貫。伊丹生まれの俳諧師で、元禄12年(1699)作の「猫の目のまだ昼過ぬ春日かな」。

 猫の目がまだ針になっていない春の昼前を句にしたのだった。

 中国版の猫の目時計を記した蘇東坡「物類相感志」が元禄3年(1690)に日本で刊行されており、鬼貫はそれを読んだとみられる。

 

 鬼貫は興味深い俳諧師で、西行と頼朝の間で「銀の猫」のやり取りがあったと「吾妻鑑」に記された文治2年(1186)、鎌倉での2人の別の逸話を書き残している。「ひとりごと」の中の文章だ。

 

鎌倉の右大将(頼朝)、西行上人に弓馬のみちをたづね給ひし時、馬は大江の千里が、月みればの歌のすがたにて、乗たまへと答られければ、ほと拍子を心得たまひて、即座に馬の乗かたをさとり給ひけるとぞ

 

 頼朝は弓馬の作法について西行に訊ねたが、乗馬については、大江千里の歌(月みれば)を参考にやってごらんなさいと、西行が教示したところ、頼朝はすぐコツをつかんだというのだ。「月みれば―」の歌とは-

 

 月みればちぢ(千々)にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

 

 月みればで空を眺めるような動作をするのか、と私は想像してしまったが、どうやら歌の意味は関係ないようだ。頼朝は「ほど拍子を心得て」悟ったと鬼貫は書いている。程拍子とは「拍子の緩急伸縮の程あい」のことで、おそらくこの歌を口ずさみながら馬に乗ったら、うまくいったというのだろう。

俳諧にも句のほと拍子は上手のうへのしわざなるべし」と鬼貫は作句でも「ほと拍子」の極意というものがあると言って締めている。

 

 それにしても、鬼貫はどこからこの逸話を探し出したのだろう。頼朝には大江広元という側近がいた。大江と言えば、百人一首で親しまれた大江千里。いつのまにか2人の大江が混淆し、西行が頼朝に流鏑馬などの故実を伝えた話に、大江千里の歌も取り込まれたのだろうか。室町時代にでも創作されたか。

 

 鬼貫にはこんな句がある。「そよりともせいで秋たつことかいの」

「程拍子」が感じられなくもない。

 後世の大伴大江丸の句にも似ると思ったところ、大江丸は鬼貫の逸話を夏目成美に語り、成美が書き残しているのを知った。それもちょっと眉唾のような話なのだがー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アオスジアゲハとタヌキチョウ

 猛暑のせいか、蝶々を見かけない。蝉の鳴き声も例年の蝉しぐれの迫力がない。

 空梅雨と猛暑で立ち枯れた紫陽花が象徴するように、花がやられてしまったので、昆虫に影響が出ているのだろうか。家の木によく来るアオスジアゲハも今年は姿を見せない。

 お盆が明けて事務所に出ると、横浜郊外に住む職員は裏山のタヌキが道端で倒れていた、こんなことは初めてなので、恐らく熱中症ではないかと思う、と話していた。

 人間ばかりか、生けるものは多分に猛暑で弱っているのだ。

 

 夏が始まる前に、夏の課題として「タヌキテウ」(たぬきちょう)の命名のわけを解きたいと思っていた。

 江戸時代の末期、尾張藩博物学者小塩(おしお)五郎(1830-1894)の著した「蝶譜」に、アオスジアゲハが掲載されていて、「タヌキテウ」と呼び名が書かれていたのが、ずっと気になっていたのだ。

 

 なぜ、たぬき蝶なのか。アオスジアゲハとたぬきの共通項など詮索してみたが、分からない。

「バリバリノ木ニ生ス」と添え書きがある。バリバリノ木はクスノキ科なので、確かにアオスジアゲハの幼虫が食べるクスノキの葉を言い当てている(ほかにタブノキなど)。たぬき蝶にも根拠があるのだろうと推測された。

 

 鮮やかな青色の羽根模様と、茶色のタヌキが結びつかない。タヌキ顔、タヌキ親爺、タヌキうどん、タヌキ寝入り。さらに、たぬきには、狸ばかりか、手貫(籠手のこと)もある。武具の手貫にひょっとして青い筋の模様があるのか、探したが見つからない。

 

 蝶にタヌキの名が付いたものはない。しかし「タスキ」ならあることが分かった。タスキアゲハ。中南米に生息するアゲハチョウ科で、黒の地に黄色の2条の線がある。上方の太い線と下方の細い線を襷に見立てたのだろう、和名はタスキアゲハとなった(英名はアゲハチョウの王様)。

 

 

 アオスジアゲハは青い筋は1本きりだが、襷と見えないこともない。日本に生息するアゲハチョウ科の他の蝶には、襷といえるほどの線の模様はない。「蝶譜」のアオスジアゲハは「タヌキチョウ」でなくて「タスキチョウ」なのか。

 そうであるなら小塩五郎はアオスジアゲハの模様を「タスキ」に見立てて命名した、あるいは尾張周辺ではすでにこういう呼び方をしていたことになる。全く全国的に普及しなかったものの、興味深いことだ。

 

 しかし博物学者たるものが、うかつにも間違えて表記したりするものだろうか。

 アオスジアゲハが姿を隠しタヌキも倒れる今年のような、江戸時代の猛暑激しい一日、小塩五郎が筆を誤った、と強引に解釈して夏の課題を終えることにした。