升おとしと借りた猫

 帰宅すると、猫が木桶の中に納まっていた。

 



 細に、いくらなんでも飯台はまずいだろう、と注意すると、飯台ではない、贈答で溜まった京粕漬「魚久」の木桶、捨てるのはもったいないので、猫用にした、という。

 

 猫は丸いものが好きで、丼に入った猫の写真が一時流行していた。最近は、猫用ベッドとして木桶が商品化されているらしい。

「それにしても、桶が小さかないかい。丈も低い気がする」猫は6歳になって体も大きくなってきたが、サイズの小さなこの桶が気に入っている。

 

 丸いのが桶なら、四角いのは升。江戸時代は、升で鼠捕りをしたのだった。

 伏せた升を棒で支え、下に餌を置いて、鼠を閉じ込める単純な仕掛けで、「升落し」と呼ばれていた。暴れる鼠に困った江戸時代の家々では、「升落し」と「猫」が主な鼠捕りのツールだったようだ。

 

 川柳の前身でもある、「前句附け」は元禄時代に盛んだったが、これにも升落しは出てくる。

 だまって だまって だまって (前句)

 夜もすがら 猫の気で居る 升おとし (付け句)

 

 黙って、静かに、という前句に、

 ネズミを捕ろうと升落しを仕掛け、夜通し、猫になった気分で待っている姿を、付けている。

 

 明和二年(1765)に、柄井川柳が「柳多留」を刊行して生まれた川柳にも、鼠捕りの猫と升落しが出てくる。

 

「枡落しかたり隣の猫をかり」(柳多留63編)

「重箱を隣へ見せて猫をかり」(同26編)

 

 借りた猫もー。

「かつほぶし喰逃げにする借りた猫」(同9編)

 役立たずで、かつお節のやり損だ、と嘆かれる。

 寺院でもー。

「猫に取らせろと宗徒等も初手は言ィ」(同28編)

と、猫に初めは期待をかけるが…。

 したたかなネズミは簡単には捕まらないことが伺える。

 

 柳多留は「柳樽」。「柳樽とは、古へは樽を柳にて作りし由。貞丈雑記に見へて、今も結納物に用ふるをもて、己が名の柳(川柳)より思ひ付きて、斯く名づけ、此の中にうまきものありとの謎なるべし」(佐々醒雪「川柳集」大正2年)。

 結納用など、美味なるものを詰めたのが柳樽らしい。

 

 桶ー枡ー樽と、調べて見て、川柳の樽の中には、鼠捕りの猫や枡ばかりでなく、ずっと探索していた西行の銀猫も詰め込まれていたのに気づいた。(続)

 

 

 

柳亭種彦の「草より出でて」の考証

 「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」

 この歌は、和歌ではなく室町時代に作られた俳諧連歌ではないか、と江戸時代後期の戯作者柳亭種彦が鋭い指摘をしている。

「用捨箱」(天保12年、1841刊)という考証随筆集で「俳諧の句を狂歌と誤る」と題して綴っている。

 

 穎原退蔵「江戸文芸」でおさらいすると、俳諧連歌室町時代連歌師が余興で始めたもので、この場限りで打ち捨てられていたが、山崎宗鑑が面白いものを集めて整理し「犬筑波集」として刊行した。

 前句の七七の題に対し、付句五七五で答える言葉遊び。

 今でもよく知られるのが、

「きりたくもあり きりたくもなし」の前句に

「盗人を捕へて見れば我が子なり」と付けたものがある。

 この前句には、別に「さやかなる月を隠せる花の枝」と付けたものも知られている。

 月を隠す花の枝もまた、切りたくもあり切りたくもなしと逡巡させるものだというのだ。

 

 

 種彦は、亡友の曳尾庵が、花鳥人物の絵にこの「犬筑波集」の句を散らした文禄慶長の頃の色紙を持っていたことをヒントに考えたという。大衆に人気を得た七七・五七五の俳諧連歌は、調べてみると、少しずつ変形しながら、やがて五七五七七の狂歌として扱われるようになっていたというのだ。

 種彦は狂歌集の「扇の草紙」に掲載された中に、犬筑波集の俳諧連歌を見つけてピックアップしている。

「月かくす花の小枝の繁きをば きりたくもありきりたくもなし」

 これは、まさに前に記した「きりたくもあり きりたくもなし」の俳諧連歌。「さやかなる月を隠せる花の枝」が変化して「月かくす花の小枝の繁きをば」に変わっている。(上図の右上)

 同様に「扇の草紙」に絵入りで掲載されていたのが、「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ」。(上図左)

 種彦は、これももとは「草より出でて草にこそ入れ」が前句の俳諧連歌だったのではないかと推測したのだった。

 この前句に対しては、付句で、虫やら細き流れなどを登場させたものを想像するところ、「案外なる月を出して狭き句を広くとりなしたるなるべし」と種彦は述べている。狭い視界から、広々とした世界へ目を移した付句と評しているのだった。

 それはともかく、もともとは前句「草より出でて草にこそ入れ」、付句「武蔵野は月の入るべき山もなし」の俳諧連歌だったと主張している。

「種彦の推定は十分首肯させるものをもっている」と市古貞次氏も認めている(「玉造物語の和歌について」)

 

 さらに遡ると、「すすき」と「月が入るべき山のない武蔵野」は、すでに続古今集で歌われているのだった。

「武蔵野は月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲」

 すすきの穂を、空の白雲だ、と見立てている所が面白い。

 中院通方作の、建保三年(1213年)内裏歌合の歌とされる。この年は、東国には将軍実朝、執権北条義時がいて、武蔵野の武士を束ねていた。 

 

「続古今集」では、この歌の少し後に、

「筑波峯の山鳥の尾の真澄(ます)鏡かけて出でたる秋の夜の月」

という藤原家隆の歌があり、武蔵野にも月の出る山として、筑波山があることを京人は認めていたのだった。

 

 

 

月の出づべき山もなし 

 遊びに来た3歳の孫娘と屋上で皆既月食を見た。双眼鏡でうまく月が見られなかったせいもあってか、飽きてしまい「かくれんぼしよう」といってぱたぱたと屋上を走り回る。月が全部隠れたと伝えると、「お月さんが可哀そう」といってまた走り出した。

 

 皆既食は長い時間続いた。皆既食は世界の広域で見られたので、月からすると、こんなに世界中の人に真剣に見つめられたのは久しぶりのことでないかと、と思った。

 

 

 しかし月は、少し前までは、もっと多くの人々に見つめられていたようだ。名月ばかりでない。弦月、三日月もまた。

 秋の三日月は酒がこぼれ、春の三日月は酒がよく入る、といった言い伝えがあるのだという。夕陽に続いて西に沈む三日月は、春の場合は月を盃に例えると酒がこぼれないように弧を背にして沈み、秋は盃を90度傾けた状態で沈む。月をよく観察し季節で異なる三日月の傾きを認知していたのだ(参考・website「月と月暦」)。

 

 月は東から出て西に沈む。満月は夕方東から出、朝方に西に沈む。上弦の月(半月)は昼間に出るため、夕方には南の空にあり、真夜中に西に沈む。下弦の月(半月)は、真夜中に東から出、昼間に西に沈む。

 月の出と月の入りを見ることできるのは、満月だけということになる。

 

 満月が出るのを待ち受けた古人の思いは想像以上のものがある。京の人々は東山36峰から上がる満月を心待ちにしていた。

夜とともに山の端いづる月影のこよひ見そむる心地こそすれ」(藤原清輔)

 

 東山36峰に「月待山」という名の小山がある。大文字山の手前の山で、銀閣寺、法然院の裏にあたる。銀閣寺では、庭に白砂を盛り上げた向月台、銀沙灘を築き、月待山から登る満月を待つ。

                           月待山(左上)と銀閣寺の向月台、銀沙灘(都林泉名所図会、寛政11年

 

 月がどの山から出るのか大きな関心事であったのだ。月が沈む山もまた関心を持たれるようになった。

 源氏物語には、沈む山を歌った和歌が多い。

里わかぬ影をば見れどゆく月のいるさの山を誰かたづぬる」(末摘花)

 

 1日で50分ずつ月の出が遅くなるので、満月より一日後の十六夜は50分後になる。紫式部は沈む十六夜の月の歌も作っている。

もろともに大内山は出でつれど入るかた見せぬ十六夜の月」(花宴)

 あけぼのを過ぎて沈む十六夜は、満月より遅いためよく見えず「入るかた見せぬ」と、歌っているのだ。紫式部が月のことを正確に観察していたことが伺われて興味深い。

 

 京と違って、私が住む東国では、月待山がない。

むさし野は月のいづべき山もなし草よりいでて草にこそいれ

                       (「玉造物語」の和歌)

 武蔵野は、月の出を待つ山がない、すすきの原から出てすすきの原に沈むばかりと、歌われた。「玉造物語」は、小町が玉造の里を目指して京を旅立ち、武蔵野に到着するまでを記した物語で、広い関東平野のすすきの原野を目にした小町は、月が昇り、隠れるべき山がないと、第一印象を歌っている。室町頃の作品と思われるが、江戸時代になるとこの歌が「月の入るべき山もなく」と変化して喧伝され、歌に合わせて武蔵野を描いた美術や文学が流行した。(参考・市古貞次「玉造物語の和歌について」=「かがみ」13号、1969年)

 

 代表的な江戸時代の武蔵野図屏風(田家秋景)を見ると、大すすきの原に見え隠れする農家、釣屋や、左手の富士、丹沢山塊の遠景とともに、逆三日月(下弦の三日月)が山のない空間に沈む不可思議な様子が描かれている。迫力ある絵ではあるが、逆三日月は昼の3時ごろ沈むのでこの絵のような様子は実際には見えない。

 上弦の三日月の間違いとしても、描かれた月は「酒がこぼれる秋の三日月」でなく、春の三日月のように「酒がよく入る」角度になった月である。

 江戸時代の屏風絵師は、平安時代の女流作家のようには、月を観察していなかったと結論づけるしかないようだ。それでも、私たちよりは月を見る時間は多かったのだろうとも思った。

 

 

秋櫻子と川田順の「との曇り」

 洋画家船川未乾が装幀した歌人川田順の歌集「山海経」(大正11年三版、東雲堂書店)をあらためて手にした。川田の大和路の歌を読んで、なにか似た世界を思い起こした。俳人水原秋櫻子の昭和初期の句だ。

 

 

   秋篠寺

 あきしのの南大門の樹(こ)の下は蛇も棲むがに草しげりたり  (大正7年)

   仏像修繕 唐招提寺の金堂にて

 匠等は春のゆふべの床(ゆか)の上(へ)にあぐらゐ黙りはたらけるかも

 いにしへの巨き匠は知らねども今のたくみを目交(まなかひ)にうれし(大正8年)

 

 一方、大正14年からの句をまとめた秋櫻子の第一句集「葛飾」(昭和5年)。

        秋篠寺

 紫雲英咲く小田邊に門は立てりけり

  再び唐招提寺 

 蟇ないて唐招提寺春いづこ

  三月堂

 来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり

 

 中学生のとき秋櫻子の句に接して、憧れを抱いた奈良の古寺のさびれた佇まいは、秋櫻子の句の前に歌人川田順が短歌で描いていたのだった。

 

 驚いたことに、秋櫻子の「葛飾」の代表句、

 梨咲くと葛飾の野はとの曇り

の「との曇り」という言葉を用いた歌も「山海経」にあった。

 

  法隆寺行  門前 

 をちこちの梨棚の上にゐる鴉目につきて野はとの曇りせり  (大正9年)

 

「との曇り」だけでなく、「梨」と「との曇り」との取り合せも一緒ではないか。

 

「との曇り」「との曇る」は万葉集大伴家持阿倍広庭の歌に用いられていて、空一面曇った様子を指している。「たなぐもる」と同じだとされる。

 

 万葉集を読み込んだ川田順が見つけ出して用いた言葉であった。

  鳴門の冬

 との曇る沖のそぐへにしらじらと浪騒立つは鳴門の潮筋   (昭和5年)

  山中湖

 さびしらに湖べ歩めばとのぐもり蝶ひとつ飛ぶささ波の上を (昭和7年)

 

 川田順と秋櫻子の関係はどういったものだったのだろうか。

 

 高濱虚子主宰の「ホトトギス」で活躍した秋櫻子は、同誌の写生句に限界を感じて俳句の新しい表現を求めた。

各作者は豊富なる表現を身につける必要があった。この豊富なる表現力の必要を感じたとき、作者等の眼は当然短歌及び詩に向けられたのである」「われわれはまづ短歌の表現から養分を摂取せんことを企てた」(水原秋櫻子「現代俳句論」、昭和11年)

 

 秋櫻子は山口誓子とともに短歌を学び、昭和初期に萬葉調といわれた俳句を作りだした。秋櫻子は上記の句のほか、

 住吉に凧揚げゐたる処女(をとめ)はも

などの句を作り、誓子も

 鱚釣や青垣なせる陸(くが)の山

 匙なめて童たのしも夏氷

万葉集で使われた助詞や名詞を取り入れた。

 さらに言えば、秋櫻子が始めた「連作」は、短歌で川田が「山海経」「青淵」でさかんに行っていたことだった。萬葉調も連作も川田の影響が大きかったのは間違いないだろう。

 

 秋櫻子は、「ホトトギス」から離れ「馬酔木」を立ち上げ、やがて誓子を同人に迎えた。その時の秋櫻子の情熱は、短歌の豊富な表現力を俳句に取り入れて得た自信から生まれたようだ。短歌といっても短歌一般ではなく、秋櫻子は川田順の短歌を読み込むことから始めたのだと思う。

「との曇り」は、それが伺える大事な言葉に思える。

 私が仕事をする事務所のビルは、昭和初期、秋櫻子の「馬酔木」編集室があった位置に建っている。編集室のあった旧ビルを現在のビルに建て替えたものだ。

 この場所で船出した秋櫻子が、川田順歌集から多大な影響を受けたこと、そして手にしたはずの「山海経」の装幀を、船川未乾画伯が担当したことに気づいて、私はなにか愉しくなってしまった。

 

 

なぞなぞを解いた芭蕉の句

「猫多羅天女」について書いた鳥翠台北茎についてもっと知りたいと思ったが、金沢の俳諧師であることしか分からない。

 

「北国奇談巡杖記」には、加賀国の、十人が橋に居ても九人しか水に映らない「九人橋の奇事」や、殺され沼に沈められた老僧の叩く鉦鼓が夜な夜な聞える「鉦鼓の淵」などの怪談や、越中国に残る民謡「こきりこ」の貴重な記述「神楽踊筑子唄譜」などが書き残されている。

 

 俳諧師だけに「奥の細道」で北陸を旅した松尾芭蕉の痕跡もいくつか記している。

 興味深いのが、曹洞宗大本山永平寺の方丈に残っていたという松尾芭蕉の句についての話だ。方丈に、額が掲げられ、雲竹の書で次の文字が書かれていたという。

 

   雲竹書

 

 その字の横に、

 

 西にて風来舎 東は桂男子

 月と風 裸にしたる 角力かな  芭蕉

 

 と書き添えられていたという。

 

 上の字は「風月」であり、そのヒントが「風来舎」と「桂男子」ということらしい。伝説では桂は月に生える樹なので、桂男子は月の男子ということになる。

 西に風来坊、東に月の男子が向かい合う。

 

 芭蕉が五七五でしめした答が、「月と風 裸にしたる 角力かな」

 風という字から「几(かぜがまえ)」を取って、裸にすると「」。

 同じように、月という字から、「」を取って裸にすると「冫」(にすい)。

 

 月と風が裸になって東西に分かれ、角力をとる姿がこのの字であるというわけだ。

 芭蕉にこんな頓智が利いていたら面白いのだが、「奥の細道」を見ると、元禄2年葉月永平寺に参拝し、門前町に住む隠者等栽と再会。等栽宅で2泊した後、ともに月を愛でるため敦賀の港に向ったと記されているだけだった。風流の人ではあるが、なぞなぞとは無縁だったようだ。

 

 

 

 

 

空飛ぶ猫多羅天女

 空飛ぶ猫、空飛ぶ化け猫の話が江戸時代の後期に書き残されているのを知った。

 

 文化年間(1804-1818)に刊行された鳥翠台北茎(ちょうすいだい・ほっけい)「北国奇談巡杖記」に、「猫多羅天女の事」という話が掲載され、空飛ぶ猫が出てくるのだ。

 

 その話をざっと記すとー。佐渡雑太郡小澤に老婆が住んでいた。夏の夕べ、山に涼みにいくと、老猫がやってきて地面をゴロゴロ転がった。婆も真似てみると、涼しく感じられて気持ちがいい。老婆は毎日山にやってきては、老猫と一緒にゴロゴロ転がった。するとどうだろう、婆はやがて体が軽くなり宙に浮き、自由に空を飛べるようになったのだった。

 

 ただし、飛行術を覚えた老婆は、頭髪が禿げた後、体中に毛が生え、凄まじい化け猫の形相に変わっていた。ゴロゴロと雷鳴を発しながら、婆は遠出して海を越え対岸の弥彦山まで飛んで来た。気に入ったのかそこに居座り、大雨を降らし続けた。

 困ったのが弥彦の住民。佐渡から飛んできた婆を恐れて、「猫多羅天女」の祠を作って祀り、なんとか婆の暴威を抑えたのだった。

 弥彦に住み着いた婆は年一度だけ、佐渡に里帰りをし、その時もまた雷鳴を轟かせながら飛んでゆくのだった。

 

「空飛ぶ猫」というのが私は面白いと思う。

 化け猫の話には、踊ったり、人語をしゃべったりする猫は出てくるが、飛ぶ猫は聞かない。

 この話が生まれた背景を想像してみた。風の神と関係があるかもしれないと。

 新潟には風の神「風の三郎」の信仰が盛んだった。旧暦6月27日(新暦7月下旬)に風の三郎の祠を作って、風除けを祈願するというものだ。台風シーズンを控え、農作物の生育を心配する農民が、被害を齎さないように風の神に祈るわけだ。

 悪さをする風の神を三郎と呼んで具象化、イメージ化している。岩手生まれの宮沢賢治の作品「風の又三郎」の東北地方の風の神ともつながっているようだ。

 

 化け猫伝説が風の三郎と合体して生まれたのが、空を飛ぶ「猫多羅天女」なのではないか。弥彦神社でも風の害から農作物を守る風祭が、台風シーズンの二百二十日に実施されている。

 弥彦神社の隣の宝光院には、今も「弥彦の鬼婆」が住んでいたという婆婆杉が残っていて、鬼婆が回心してから呼ばれるようになった「妙多羅天女」の説話が伝えられる。「猫(みょう)多羅天女」が「妙多羅天女」に変わったのだった。

 

 鬼婆が妙多羅天女になった話は山形県置賜郡高島町にもあった。息子とともにお家の再興をはかる武家の未亡人が息子の留守中に悪病に冒されて、旅人を襲う鬼婆となってしまった。戻った息子も襲われたが、鬼婆の手を切り落として無事に家に戻ると、母は寝込んでいた。母は息子が持ち帰った鬼の手を奪うと、弥彦山に向って行ったという。息子は憐れんで母を「妙多羅天女」として祀った。その息子の名は弥三郎。

 三郎、弥彦山、鬼婆…。「猫多羅天女」「妙多羅天女」の話はつながっているように思える。

 

 私には猫と一緒に土の上でゴロゴロと転がった佐渡の老婆の姿が無邪気で好もしく思える。飛行術を得た時も至福の一瞬だったと、物語の中の婆を想像する。だが明るい話は一転し、婆はその代償として、「風の三郎型」の化け猫に変身してしまうのだった。

 

 うちの猫もゴロゴロしている。まねてみようか。

 

 

 

 

 

 

古本に挟まっていたカラヤン公演の名残

 昼すぎ事務所を出て、神田神保町あたりを散策する。街は女子高生、大学生、本探しの高齢者、そして海外からの観光客で賑わいが回復しつつある。古レコード店の御主人も何年かぶりに雑貨の仕入れにネパールへ出かけ、戻ってきた。

 古本街の店外に置かれている廉価本を眺めて歩く。重い本を何冊も手に入れて戻った。大田黒元雄「大作曲家物語」(昭和24年、湖山社)を見つけて、ついでに買った。

 本を開くと、何やら挟まっていた。前の持ち主が栞替わりにしたものらしい。2つ折りにされたチケット袋で捨てようとすると、袋に「BERLINER PHILHARMONISCHES ORCHESTER」と古風な書体で印刷されてあるのに気づいた。

 NHKのマークと「Conducted by Herbert von Karajan」の文字もある。カラヤン指揮ベルリンフィルの公演チケットの袋のようだった。

 



 私はシャーロック・ホームズが好きなもので、つい探ってみたくなる。

 カラヤンの来日公演は

 1954年 NHK交響楽団客演指揮

 1957年 ベルリンフィル初来日公演

 1959年 ウィーンフィル

 1966年 ベルリンフィル

 以後 70年、73年、77年、79年、81年、84年、88年ベルリンフィル

 

 このチケットは、赤字のいずれかに相当することに間違いはない。本には、ほかに新聞記事の写真の切り抜きが挟んであった。写真のキャプションには、卓球の富田がバーグマンを破ったとだけ記されていた。

 卓球界で富田と言えば富田芳雄選手で、現役時代に英国のリチャード・バーグマン選手が活躍していたことも分かった。1956年東京開催の23回世界卓球選手権大会、男子シングルスの準々決勝で、富田はバーグマンを3-1で破って銅メダルを獲得している。記事はその時のものらしい。(富田は準決勝で荻村伊智朗と対戦し敗北。荻村は金を獲得した)

 

 以上の事実から、カラヤン公演は翌1957年のものと推測された。日独文化協定記念のイベントで110名のフルメンバーが来日したのだという。国内で11月3日から同22日までなんと15公演が開催された。(東京では日比谷公会堂東京体育館、旧NHKホール)

 この時のチケット入れがこれだったようだ。

 本の持ち主は、何を聴いたのだろうか。NHKホールは、ワーグナーマイスタージンガー前奏曲」、R・シュトラウスドン・ファン」、ベートーベン「交響曲5番」が演目で、日比谷公会堂などでは、ベートーベン「英雄」、交響曲7番、ブラームス交響曲1,2番、モーツアルト「ハフナー」「プラハ」、シューベルト「未完成」、ストラヴィンスキー火の鳥組曲」などが演奏されていた。ドイツ生まれの作曲家の作品が大半だが、ストラヴィンスキードボルザークなども少しながら混じっている。

 

 日独文化協定なるものもついでに調べると、日本と西独(東西ドイツ統一は1990年)との文化交流の増進を図る目的で、1957年2月14日、岸信介首相と、ドイツ連邦共和国のハルシュタイン外務次官が外務省で署名調印したものだった。文化協定はフランス、ブラジル、イタリア、メキシコ、タイ、インドとすでに締結していて、7番目。両国間の刊行物の交換、美術、音楽、演劇、映画等の交流、学者、留学生の交換など文化学術関係の強化促進を成文化している。

 ベルリンフィルの来日公演は、協定調印を記念しての大規模イベントであり、その後の日本でのカラヤン人気に繋がって行くのだった。

 この年、コカ・コーラが日本で発売され、長嶋茂雄プロ野球入り。上野動物園内のモノレールも竣工された。幼いころ、親に連れられて出来立てのモノレールに乗った微かな記憶がある。

 

 それにしても、古本には意外なものが挟まっている。記憶をたどると、戦時中の小型紙幣「十銭札」、大正生まれの方の敗戦直後の履歴書、文春編集者の昭和時代のタクシーチケット…。

 本が読まれた、その時代の空気が漂って来て、タイムカプセルを開けたような気分になる。

 

 大田黒元雄氏の印は「M」。アルファベットの検印に出会ったのは、長谷川如是閑伊波普猷についで3度目だった。湖山社の検印用紙も蛙のデザインで興味深い。