未乾デザインの検印紙

 詩画集を2冊出した洋画家・船川未乾と美学者・園頼三は、8年後の昭和2年(1927)にまた一緒に協力して1冊の本を作り上げる。

 「園頼三/怪奇美の誕生」で、船川が装幀を担当し、創元社から刊行されたのだった。

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 創元社を立ち上げたばかりの矢部良策は、昭和2年1月「童話 お話のなる樹」を出版し、大阪の出版界に新風を吹かせたと前に書いたが、同年10月、この不思議なタイトルの本を刊行したのだった。「童話 お話のなる樹」で装幀を担当し、矢部の信頼を得た船川画伯が、知人で新進美学者の園との橋渡しをしたものと推測される。

 

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 あとがきの「集の後に」で、園は船川のことに触れている。「船川君は苦心の装幀を以ってこの集を包んでくれた。それだけでない。君は、たどたどしい私の魂の歩みを、絶えず温かい友情を以って見守ってくれた人だ。言ったとて、詞は足らぬが、この機会に謝意を表して置く」

 

 ムンク「臨終の室」、ゴヤ「銃殺」、デューラー「騎行の死」など、421頁中に、29枚写真版が散りばめられた贅沢な本づくり。表題作のほか「静物画の話」など美術随想、欧州留学中の紀行文「スペインの旅」「巴里雑景」など27編が収録されていた。

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 私は、著者検印のデザインに目が行った。船川画伯の例の愉快ないたずら、だと思った。この本のために、検印紙をデザインしたようなのだ。創元社の当時の他の出版物を見ると、著者検印紙のデザインは、花2輪のものだ。「怪奇美の誕生」が特別だということが分かる。

 

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 さらに、この創元社の通常の検印デザインをあらためて見直すと、この花の描き方は、船川画伯のチューリップの版画とよく似ていることに気づいた。

 おそらく、これも船川のデザイン。矢部は創元社の著者検印のデザインも船川画伯に依頼したようだ。

 

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 洋画家、版画家としてだけでなく、出版の世界でもまた、船川装幀の隠れた貢献は再評価に値するのではないか。画伯の装幀の集まった古書を眺めながら、そう思うのだ。

 

園頼三が見つけた未乾の自画像

 大正7年(1918)8月、列強はロシアの革命政府に武力干渉し、日本も米国とともにシベリアへ出兵し、シベリア経由で脱出を図るチェコ軍を救出するために赤軍と戦った。

 国内では、シベリア出兵を見越して、投機目当ての米の買占めが発生した。米価が2倍に高騰し、8月に主婦、漁民が富山で暴動をおこし、米騒動は日本全国に広がっていった。

 京都でも暴動が発生した。先に記した「心の劇場」の訳者、京都帝大の高倉輝は、暴徒が群衆となって四条大橋を進むのを鴨川沿いの食堂で目撃し、学問に対する情熱を失い、厭世的になったと書いている。

 

  船川未乾画伯は、そんな時代の空気の京都で活発な活動を始めたのだった。翌19年8月、立命館大学で美学や哲学を講義し出した29歳の園頼三と詩画集「自己陶酔」を出版した。発行は「表現社」となっているが、住所は園の自宅。自費出版だった。

 

 園は「かうした私の身上に最も重大なのは親友だ、一緒に仕事をやらうと奨められた。恥を曝らすも諸共だと思へばこそ、では一緒にとまあ恁うした訳だ」と同書の「跋」で刊行の経緯を書いている。33歳の船川画伯が、園の背中を押したようだ。

 

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 ところが、画のほうが手間取った。船川は画をすでに用意していたが、直前になって「とてもこの集に入れる気がしないので、亦新しく書き初めた。けれども自分の満足した畫は一枚も出来なかった」と、「跋」で園の文章の後に記している。

 

 園の詩は出来上がり、製版所から催促が来た。雑誌「白樺」にこの詩画集の広告が掲載された。心配して船川宅にやってきた園は、スケッチ帖などに目をやって、日記に書かれた船川の自画像を発見。「載せてはどうかと云った。それで自分ものせる気に成ったので今までしまひ込んで有った画をほり出して二人で鑑別を初めた。(略)だからこの集に有る自画像も静物も殆どスケッチ帖に有った」ものだという。

 

 園の詩は19篇。船川の画は13点。目を通すと、園は「静物」にこだわっていた。船川が後年こだわって描いたのも「静物」だ。このころ、2人には「静物」に託した共通した思いがあったようだ。

 広辞苑で「静物」とは。「静止して動かないもの。自ら動く力のないもの。また、静物画の対象となるもの。」

 

 園は、「序に代へて」で、一本の樹木から静物論を展開していた。一本の樹木を見て、ある者は植物学的関心から何の木か考え、ある者は庭木として移そうかどうか考える、またある者は材木として幾らになるか考える。

 園の主張は「樹の身になって考へて見賜へ」。一本の樹のように「人目をひかぬ、情感を強ひぬ、自己の運命に身を任せてつつましく謙譲に、而もそれ相応の力に充てる至って平凡なそれやこれやの存在に向って限ない敬慕の情を抱」くことだと。そのような思いを持つことが、「私は確によい生活をしてゐると思ふ。近代洋画に現はれたる『静物』の精神の床しさよ。」

 舌足らずの表現なので、汲み取るのが難しいが、≪見た目の識別やら世俗的な価値でものを見るのではなく、ものが存在している、それ自体の意味に思い致せ。黙って存在しているものたちへの敬慕の精神が、西洋では「静物画」という形で表れされているではないか。≫と解釈してみる。

 

 大正9年には物価が高騰して京都も不況に襲われる。「出版界の打撃は特に甚だしく廃刊相次ぐ況を呈し」(「歴史と地理」大正9年5巻4号)と、京都の星野書店発行の学術誌は1年4円60銭から、5円70銭に値上げしている。そんななかで、彼らは詩画集第2弾「蒼空」を自費出版する。

 

 社会不安が広がる時代に、生き方を探していた若き二人が目に浮かぶ。雇ったばあやと暮らしていた園は、鹿ケ谷自宅の周辺を、風来坊のように一日二遍三遍と小犬を連れて歩くのが日課だったという。「縁」という5行の詩がその様子を伝えている。

 

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  縁

 

「おっちゃん犬どうしたの」

「うちにゐるよ」

 

一二度通った駄菓子屋のかど先

出て来た小供のしほらしさ

 

犬の取持つ縁かいな

 

  隣のページには、船川の描く、小犬と一緒に腰を下ろす人間の画。園の姿のように見える。竹内勝太郎、榊原紫峰との交遊に先立って、船川画伯は園との貴重な時間を共有していたようだ。

 

 

 

 

 

知人の庭の水仙とワーズワース

 知人宅に1週間前息子夫婦とともに訪ねた時のこと。庭に、水仙が見事に咲き誇っていた。5か所で群生していた。明るい黄の水仙。白い花も少し交っていた。

 

 夫人に伺うと、「植えたわけではないのですよ。どこからか飛んできたのでしょうかね。今年は、こんなに増えだしたのです」

 

 明るい水仙。ご主人が生前、一家で過ごしていた英国の事を思い出しワーズワースの詩を思い出した。

 

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「I wandered lonely as a cloud」水仙を歌った彼の代表作。「水仙」と日本ではタイトルになっている。

 

 こんな具合に始まる。田部重治の訳(岩波文庫、1966年改版)でー。

 

 谷また丘のうえ高く漂う雲のごと、
 われひとりさ迷い行けば、
 折しも見出でたる一群の
 黄金色に輝く水仙の花、
 湖のほとり、木立の下に、
 微風に翻えりつつ、はた、躍りつつ。

 

 

 日本の水仙と違って、英国ウェールズ水仙は明るいのだと、明治時代の京都で一中学生が、ワーズワースの詩を知って驚いた逸話を思い出した。高木市之助氏(1888-1974)だ。

 

 1907ー09年ごろ、京都御苑の東南、現在の富小路広場に建てられていた京都府立図書館を隠れ場所にしていた少年は、そこを出ると、寺町通りを南へ向かい、丸太町通りにある「前川といふ小ぎれいな本屋」で本を買うのを楽しみにしていたという。そこで手にした詩集「Selections from Poets of three countries」で、ワーズワースのこの詩に出会う。湖水地方の湖畔に咲く水仙の群落。ふらふらとダンスしながら、詩人の憂愁を慰めて陽気にする花を描いた詩に心惹かれる。

 

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 しかし納得できないことがあった、と「湖畔」(1950年東京書院、77年講談社学術文庫)に書いている。

「この詩の主題になっている、daffodilsについてであった。字引きを引くとこの語の訳は水仙となっている。」「水仙は当時私の母が祖母の命日などに仏前に供えた花だった。・・・霜雪に堪え万花にさきがけて咲く、節操そのもののような、清楚であっても、まことにかたくるしそうな」ものだった。それに引き換え、ワーズワースの描く水仙は「なんというふくよかな、またくつろいだ姿をしていることか」。

 

 その後、英文学への道を閉ざして、日本の古代文芸の研究家になった高木氏は、大正13年(1924)英国に留学した。早春の晴れた日、ロンドン近郊のキウ植物園を同氏が訪問し、水辺に群生する待望の水仙と偶然出会うのだった。

 

「ベンチに腰を下ろして、対岸の汀に咲き乱れる一面のダフォデイルを見渡」す。「濃黄色の、あやめに近いほどの大きなそうして柔らかい花片を垂れている。」「か弱そうな花梗は、花を支えるに堪えかねてか、(中略)大きく前後左右に揺れてやまない」

 これこそ、ワーズワース黄水仙ではないか。「水仙」に出会ってから15年以上たっていた。

 

「吉野の鮎」「貧窮問答歌の論」など、記紀万葉集の研究で知られる高木氏が、ワーズワースを終生追いかけているのも、興味深いことだった。

 

 調べると、ニホンスイセンに対し、英など欧州の水仙はラッパスイセン(narcissus pseudonarcissus L.)だという。湖水地方のものはラッパスイセンの一種なのだろう。

 

 知人の家の庭の水仙は、このラッパスイセンのようだ。日本でもこの水仙が繁殖しだしているらしい。明るく微風に揺れる水仙を眺めながら、道半ばで亡くなった知人を偲んだ。

 

 

 



未乾装幀本と「友達座」

 大正、昭和初期の京の洋画家船山未乾画伯装幀の本探しを続けている。

 

 届いた「心の劇場」(大正10年=1921、内外出版)を手にして、装幀ともども本の内容にまた驚かされた。

 

 

 同書は、京都帝大でロシア文学を学んだ高倉輝が、ロシア文学の戯曲、短編、詩編を翻訳したものだった。エウレイノフの戯曲、トルストイの短編、バリモントらの詩。私は初めて知るものばかりだった。

 

 巻頭の戯曲「道化芝居」の前に、音楽家近衛秀麿の2曲の楽譜が4ページ掲載されている。その後に「友達座」の舞台写真が。

 

 

「はしがき」を読んでみた。

『道化芝居』の舞台面及び近衛秀麿氏作曲の楽譜は一九一八年九月友達座第二回試演として三島章道通隆両氏の渡欧送別紀念の為にプライヱェトに上場せられた折のもので、此の作者の作品が日本の舞台に登った最初の紀念として友達座の人人に請ひ受けて茲に掲げる事とした

 

 エウレイノフ「道化芝居」は、友達座によって初演されており、翻訳の掲載に当たって、初演の資料を掲載したということが分かった。

 友達座って何なのだろう。

 内藤一成氏「大正デモクラシーと青年華族:三島通陽と劇団『友達座』を中心に」(「近代日本研究」2012年、VOL.29)が参考になった。

 

 1917年ごろ、演劇に関心を持った子爵の三島通陽(筆名章道)が、学習院学友の土方与志近衛秀麿、実吉捷郎ら、それに弟三島通隆も加わって結成したものだった。華族の広い邸を借りて稽古、公演を行なった。同じ学習院から生まれた「白樺」より少し後輩たちの文芸、演劇活動だった。

 



 内藤論文によると、1918年9月29、30日にエウレイノフ「陽気な死」を、三島の叔父村井弥吉邸の食堂と客間を使って上演している。タイトルは違っているが、内容から見て、これが「道化芝居」だったようだ。

 通陽の日記によると、観客には、秋田雨雀岸田劉生山田耕筰らの顔もあり、柳沢保恵伯、柳原義光伯、佐々木行忠侯ら華族も鑑賞したという。

 

 はしがきにある「渡欧送別紀念」というのは、同年12月のヴェルサイユ講和会議の全権委員の叔父牧野伸顕の随員として、通陽らが渡欧し、そのまま留学生活に入る予定だったことを指しているようだ。父の急死で1919年3月に中途で帰国。その後、再び友達座に情熱を注いだが、不足する劇団の女優を公募したことで、マスコミが飛びつき、恰好の餌食になった。

「痴態に耽る華族の公達」(毎日)と、各紙がスキャンダラスに取り上げたことで、宮内省宗秩寮が動き、異例の活動中止命令。劇団は同年9月、解散に追い込まれた。

 

 

 大正10年(1921)刊行の「心の劇場」は、その2年前に消滅させられた友達座の活動を伝える貴重な資料を掲載したのだった。

 

翻訳集の出版に関して異常な好意を示された成瀬無極氏園池公功氏三島章道氏近衛秀麿氏及び装幀に非常な苦心を払はれた船川未乾氏に対し深く感謝の意を表する」と高倉は書いている。

 三島はこの翌年、後藤新平が結成したボーイスカウト「少年団日本連盟」の副理事長に就任。生涯ボーイスカウト運動に力を注いだのだった。

 

 さて、船川未乾画伯が装幀を担当したのは、やはり京都帝大の深田康算教授の推薦だったとみられる。高倉は同帝大で深田教授からギリシア語を学んでいたのだった。

 青地の布に17個の白い円を並べた斬新な表紙は、よく見ると、17個の円を生地のまま残して、残り全体を青く染めたものだった。

 

 中央の鳥は小さくてよくわからないが、扉を見ると、ごらんの通り、こちらになにかを語りかけてくるような動物なのだった。

 

梅、椿の鈴鹿関と伊藤伊兵衛

 細に誘われて先週、安行にある花と緑の振興センターに行った。早咲きの桜が満開だったが、私はまだ咲いている梅と、「春日野」(写真下)「武蔵野」「月宮殿」といった梅の和名に関心を持った。なぜ、こういう名が付いているのか。

 

 

 椿も多種が植わっていて、様々な名が付いていた。札を眺めていて、梅と同じ和名の「鈴鹿の関」(写真下)に気づいた。

 

 

 古代、畿内を守るために設置された三関の一つ。北陸との境の愛発関(越前國、福井県)や、不破関(美濃國、岐阜県)とともに東国とを分かった鈴鹿関(伊勢國、三重県)。

 それが、どうして、花の名に用いられたのだろうか気になったのだ。

 花の特徴を調べると、共通項がすぐ見つかった。

 

 

 

 椿 「鈴鹿の関」 赤い花びらに白斑がある。もとの品種「鈴鹿山」は赤一色。

 梅 「鈴鹿の関」 花びらの底が紅く、花びらの先が白い。

 

 赤と白の二色の花を「鈴鹿の関」と呼んだらしいことが分かった。

 

 晩秋の鈴鹿峠に行ったことはないが、紅葉の季節に冠雪が見られるという。蕉門の俳諧師各務支考の句に次のようなものがあった。

 

鈴鹿よりあちらは白し神無月

 

 峠の手前は見事な紅葉だが、峠の向こうは雪で白いという句らしい。

 赤に白の花びらは、紅葉に雪が混じる鈴鹿の景に見立てたということになる。果たしてそうなのか、これからも調べてゆくことにした。

 

 植木の里、安行の椿については、こんな記述を発見した。「日本一と謂われる安行の椿は、この頃(明治22年)百八種を染井から運んだものという」(前島康彦「江戸樹藝大成者伊藤伊兵衛とその一族」(昭和34年、首都緑化推進委員会)=写真下=

 

 安行の椿が日本一といわれていたこと、また、108品種もの椿(「鈴鹿の関」も含まれていたのだろう)がソメイヨシノの桜で知られる駒込染井から移され植えられた、とことが分かった。

 

 染井というと、学生時代染井墓地を通り抜けてキャンパスに通っていた、大変懐かしい場所だ。友人はトランペットの練習を墓石に囲まれながら熱心にしていたものだ。

 

 

 上掲書によると

種芸家とよばれる職種が都会に生まれはじめたのは、江戸では寛文・延宝(1660~1680)頃からで、当時下谷池ノ端、芝神明、四谷伝馬町、駒込染井附近に殊に多かったという事が、「江戸鹿子」(1687)に見えている。」

 そして「中でも染井の植木屋は規模最も大きく、多くの名手を排出(輩出)したことから、ここは江戸園芸の渕叢のごとくに世人にはもてはやされた」と書いてある。

 

 染井には藤堂家の下屋敷があり、草花を愛で他所から移しては植えていたが、花が終ると抜き捨てていた。それを見て、植木屋の伊藤伊兵衛は、それらの草木を集めては貯め、次第に霧島つつじ、椿、桜、楓、竹と種類が増えていった。

 

 四代目伊兵衛の時、将軍吉宗が染井を訪問した。霧島つつじ、阿蘭陀つつじ、楓、野田藤、白山吹、山杏や籠の寄植えを択んで帰ったという(代金銀三枚)。

 その後、吉宗の命を受けたものが、舶来の樹木を手に樹名を聞きに来た。「深山楓に近い」と返事すると、将軍から、折枝と実の形状を描いた画を求めたので、伊兵衛は盆栽にして献上。すると、今度は舶来の楓と深山楓の接ぎ木をしてほしいとの依頼が来たという。吉宗と伊兵衛のやり取りは、新撰武蔵国風土記稿に記されているそうだ。

 

 将軍から信頼を得たためだろう、享保5年(1720)9月には、将軍吉宗から、飛鳥山を観桜の名所にするために、伊兵衛に特命が下った。「飛鳥山植桜の時、(伊兵衛)政武が江戸城吹上の桜苗二七〇本を移して同月七日より九日までの間に現地に植栽する大役を奉じた」(上掲書)のだった。3日で270本、一日で90本という勘定になる。

 飛鳥山の桜というと吉宗の功績があげられるが、四代目伊藤伊兵衛の存在も大きかったようだ。

 



 都内は桜が満開。飛鳥山の桜も見事に咲いている。花の季節に、神保町の古書店で小冊子を偶然見つけ、伊藤伊兵衛の存在を知ったのが嬉しい。

 そして、簡潔な文章と、著者名を文章の最後の「前島康彦記」とだけしか記さなかった、造園家であり農学博士だった氏(1910-1988)に感心したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

29年勝太郎が聴いたカザルス・トリオ

 日本画家の榊原紫峰は裕福な家庭に生まれたわけでなく、余裕のある生活をしていたわけではなかったが、仲間からは富裕だと見られていたと、富士正晴「榊原紫峰」で記されていた。

 理由は、蓄音機とSPレコードを所有していたからだという。大正年間、確かに余裕がなければ、ふつうは買わなかったものだろう。

 

 先に触れたチェロ奏者カザルスのレコードも、紫峰本人のもので、自宅で聴いたことが想像された。大正9年(1920)、日本画「奈良の森」が生まれた逸話だ。

 

 紫峰の心友の7歳年下の詩人竹内勝太郎=写真=もクラシック音楽をよく聴いていたようだ。同年、もう一人の心友、洋画家の船川未乾が、竹内のためにベートーヴェンの小さな肖像彫刻を作って贈呈している。

 

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 「西欧藝術風物記」では、昭和4年(1929)、竹内が遊学中のパリで冬の音楽シーズンを満喫し、ラフマニノフコルトー、ブライロフスキーのピアノや、ストラヴィンスキーの指揮を目の当たりにしていたことを日記に書いていた。

 その中に「遠い昔、自分がレコードで彼の「火の鳥」を聞い」たと記していた。ストラヴィンスキーはこの曲を幾度か改編しており、1911年版のものを十代のころに聴いていたのだろうと思われる。

 

 パリでは、紫峰がレコードで感銘したカザルスの演奏をライブで聴いている。

 バイオリンのジャック・ティボー、ピアノのアルフレッド・コルトーとのカザルス・トリオの公演だった。

 「十二月十二日。/夜サン・プレイエルへコルト、チボオ、カザルスのトリオを聞きにゆく。

 サル・プレイエルはパリ8区にある音楽ホールで、この2年前に3代目の建物が完成したばかり、当時は3000席を収容できたそうだ。

 

 「素晴らしい人気だ。舞台の奥まで聴衆で埋まってゐる。セーゾンは殆ど絶頂に達したらしい。そしてこのトリオなぞは毎年セーゾン中の大物として一般から書入れにされてゐるに違ひない。実際にまたそれは素的な音楽的祝祭だった

 

 20世紀初めに、20代だった俊英3人が結成したこのトリオは、20年を経て円熟味をまし高い評価を得ていた。1929年パリの冬の音楽シーズンでもいちばんの呼び物となっていたことが伺える。

 曲目は、シューベルト ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 OP99

     ハイドン   ピアノ三重奏曲第25番 ト長調 OP73-2 

     シューマン  ピアノ三重奏曲第1番  ニ短調 OP63

 勝太郎の各曲の感想をまとめると

  シューベルト 「益々傑いと思ふ。実に面白い曲だ。…殊に此のロンドは非常な楽しさと喜ばしさとを持ってゐる」

  ハイドン  「充分隙間のない構成だ。…アダジオの処なぞは他に比類がない程興趣の深いものだった」(有名な3楽章の「ハンガリー風ロンド」でなく、2楽章に感心している)

  シューマン 「最後の二つの楽章、殊に『深い感情を以て緩やかに』はキラキラ光る宝石の流れのやうに美しかった」(クララ夫人の誕生日のために書かれたロマンチシズムに溢れた3楽章に魅かれている)

 

「自己の世界を確立した人だ」「名人の芸術だ」とカザルスを褒めちぎる一方、ティボーは力いっぱい弾いて「少し若い」、コルトーは2人の音に押されて「大分若い」と、今から見ると楽器の特色の認識不足から出たような、感想も書いていた。

 ただ、「このトリオなぞは世界最高のものだ。日本ではとても聞くことは出来ない。――三つの音が牽き合ひ融け合ひ離れ合ってゆく、その微妙な味、心持の変化、光と陰、それはどうしても最高の芸術だ。自分はこれを聞いただけでも欧羅巴へ来た甲斐があると信じて居る」とトリオ演奏の醍醐味を綴って締めていた。

 

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       竹内勝太郎がパリ交響楽団を毎週聴きに行ったシャンゼリゼ劇場

 帰国後、竹内から話を聞いた紫峰は、地団駄ふんでうらやましがったことと想像する。未乾とともに洋行の資金調達をし、しかも勝太郎からは留学先から、金が足りない、絵を売って送金してほしいとの手紙まで受け取っていたのだから。

 

 未乾が留学先のパリで、ポスト印象派のブラックやピカソに影響を受けたように、パリで竹内はドビュッシーを「惜しいことには彼は音楽のカラリストで終つたやうな気がする。音楽上の印象派と云はれるのもその為だろう」と、印象派について辛口の感想を述べている。ラベルやストラヴィンスキーに強い関心を寄せているのが興味深い。

 

 彼ら3人は、音楽談義を通しても、熱く自分の思いを語っていたのだろう。

 

 或は、洋画、日本画、詩とそれぞれの分野を楽器にして、カザルス・トリオのように三重奏を気取ったかもしれない。しかしながら、病気、滑落事故と、トリオは円熟する暇もなく解散を余儀なくされたのだった。

 

 当時のカザルストリオの演奏は、CDで今でも聴くことが出来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戯曲集 鴉」のデザイン

 なぜ、洋画家船川未乾について調べ出したのだろう。

 江戸後期の京の俳諧師西村定雅を調べていて、大正10年刊行の藤井乙男「江戸文学研究」を手にしたのがきっかけだった、と思い出した。この画家の手になる本の装幀に興味を持って、未乾画伯を少しずつ調べ出したのだ。没後一度も回顧展が開かれず、作品集も刊行されていないこともあって、関心が膨らんだ。

 

 やっと、画伯のことがある程度分かる著作が見つかった。作家富士正晴の「榊原紫峰」(1988、朝日新聞社)だった。画伯の心友だった竹内勝太郎に、富士は高校生時代に師事していたのだった。

 

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 遺族から勝太郎の日記を託された富士は、日記を読み込んだ。それをもとにして、日本画家の紫峰を描き、もう一人の心友未乾のことも紹介していたのだ。

 詩人の竹内勝太郎、日本画家の榊原紫峰は、京都の法然院の西に建てられた未乾のアトリエ洋館近くに住まいを持ち、頻繁に会って話す仲だった。

 未乾の最期を看取ったのは、夫人と勝太郎で、葬儀委員長は、紫峰が務めたことも判った。

 

 この「榊原紫峰」を読んでいる時、昭和2年(1927)に未乾が装幀した関口次郎「戯曲集 鴉」(創元社)が古書肆から届いた。

 函を見、函から本をひきだして表紙を見た。そして、ページをめくってみると、意外な見返しがあった。

 

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 抽象画のようなデザイン。銀の縦線が、右方に何本も描かれている。左ではその線が中央でかたまり、淡い青緑が点々と加えられている。銀は所々でキラキラ光っている。

 左の方の茶は、経年変化による紙のしみなのだろうか。

 

 裏の見返しでは、同じ構図なのに、右側に同じような茶が浮かんでいる。

 

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 昭和2年、今から95年前、この見返しは、銀がキラキラと光るもっともっと美しいものだったと想像できた。

 

 未乾の装幀には、度々、目を驚かせる仕掛けがほどこされるが、この本ではこの見返しがそれであろうと思った。

 

 表紙は、乳白色に金の箔押しで、花を描いた線画。函の絵を参考に考えると、チューリップの花5本なのだろう。美しい金の箔押しは、この後に装幀した勝太郎の「詩集 室内」でさらに大胆に展開することになる。

 

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 著者の関口次郎(1893-1979)は、敦賀生まれで、東京帝大を卒業後、大阪朝日新聞に入社した。大正12年に退社し、当時は東京で新劇の演出家、戯曲作家として独立していた。

 創元社は、新しい才能を戯曲の世界でも見つけて、世に出そうとしたようだ。

 

 表題の「鴉」は、山奥の宿にひっそりと現れた文筆家を主人公にした短い戯曲だった。弟がテロ事件を起こし、父が責任を感じて自死、主人公も離婚に追い込まれ、世間、マスコミの喧噪から逃げて来たのだった。宿でもまた、私服刑事にマークされ、新聞記者が執拗に追いかけるー。今に通じる内容だったので、抵抗なく読むことができた。

 

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「榊原紫峰」には、関口次郎が登場する。ひとつは、文壇進出を願う勝太郎に頼まれ、未乾が病気を押して、関口に伝手を求め勝太郎を伴って上京したという記述だった。面倒見のいい未乾が、関口を信頼していたことが伺われる。(勝太郎にはこのように厚かましい点が多々ある)。

 関口はこの年、岸田國士岩田豊雄らと新劇研究所を設立した。実は、この岩田(獅子文六)は、1922年船川未乾夫妻と同時期に渡仏し、パリでも交流があったと思われる。未乾と関口は、獅子文六という共通の知人があって、つながりも深まったのだろう。

 関口は、未乾の葬儀でも式の進行を手伝い、その後も上洛して未乾の遺言だった遺作展の話を紫峰、勝太郎と3人でしていたことが記されていた。

「資金の点で遂に不可能になってしまった」と勝太郎は日記に綴っていた。